道深し 空手武道
沖縄古武道協会長 比嘉清徳
『武道春秋』武道タイムス 昭和41(1966)年10月1日
(一)
私が空手を習い始めたのは、小学校の五年生の頃で、家で働いていた岸本喜順氏からであった。その当時空手の形を二つ憶えた。
旧制の中学一年の夏から、当時65,6才の岸本祖孝先生の指導を受けるようになった。老師範は隠れた達人と人々からいわれていて、数多くの武勇伝がある。祖孝先生の師は、旧琉球王朝の達人といわれた武村先生で、師が82才の時岸本先生は20才位だったとのこと、その武村先生にも、武勇伝が数多く残っている。
私は岸本老師範に可愛がられ、師範代などもやっていたが、23才の九月末に台湾に行くため別れた。旅立つときに五円の餞別金をいただき心から有難くて今でも忘れることができない。戦争中は70才をはるかに越しておられたが、御自分と同じ位の体重の奥さん、それに食糧や鍋釜食器等をモッコに入れて、天秤棒でかついで毎日毎日砲弾が飛んでいる山野を、避難のため駈け回っていたと伝え聞いている。奥さんは目が悪くて歩けなかった。でも高齢でありながらよくもこんなことができたものである。
老師は決して弟子をとりたがらず一生涯で、弟子の数は十人位であった。私の弟弟子に東京で活躍中の祝嶺制献師範(注・日本空手武道協会玄制館々長)がいる。彼の当身は牛刀で一気に瓦38枚も砕く力量で、老師範の逸話も数多く知っている。
(二)
私は昭和15年、中大の学生のとき遠山寛賢師範の主催で、金城裕、泉川寛喜、比嘉良仁その他各氏と共に、鶴見市で演武を行なった。
当時私は空手歴8年だったが、形が違うので認められず、日大の空手部2年の武歴がある学生と同じ初段として出場した。しかし後日改められ、19年に師範になった。
昭和20年には、インドネシャのスマトラ島ブキテインギで空手の演武をしたり、サバン島で空手のデモンストレーションをやって、日本人の意気を示し、外人を大いにビックリさせたものである。
九州には、私の弟子も多く、又、活躍したところで、大いに親交がある千歳強直先輩を会長に、私が副会長で、日本空手道普及会を組織、福岡の上原三郎、熊本の野添昭男師範、その他の指導者を会員としている。熊本県の菊池市には、弟子の荒木信悟四段を残して一人で熊本、北九州から、三重県、名古屋を経て東京まで、演武普及を約一年も続けた。その途路は津の警察学校の臨時講師になったり、飛入・他流試合申込に応じたり、ユスリ、タカリを追払う役目を押しつけられたり、波爛万丈の道中で全精魂を打込む程、若い情熱を傾けたものであった。
当時の私は板を割り、瓦を砕き、自由組手で弟子を相手に稽古して、自ら色々と手法を工夫して、沈滞した青年の心をふるい立たせることに懸命であった。
沖縄に帰ってからは、勤務の余暇を指導に当てながら、沖縄の空手界の指導者に多くの知己を得たのである。上地完英、知花朝信、名嘉真朝増、中村茂、比嘉世幸、兼島信助、仲里周五郎、宮里栄一、宮平勝哉、八木明徳、祖堅方範、仲井間憲孝等の各氏であった。その後、棒術の名門として誉れ高い山根流の宗家知念正美師範に雨の日も風の日も三年も通い続けて操法を習得し、師範第一号の免状をもったものである。
1960年(昭和35年)には、沖縄古武道協会を結成、琉球政府文化財保護委員会から、二度に亘って助成金をもらい一期二期三期と不肖私が会長に就いている。
(三)
昭和38年8月31日から9月8日まで熊本市の大洋デパートで沖縄展があって、私も沖縄代表の一人として参加した。演武は五日間で熊本にある自衛隊でもやり、また、ライ療養所でも行なった。熊本での演武は古武道協会からは兼島信助、津波孝明各師範に現在の私の師匠上原清吉師範に翁長武十四君と私が正式のメンバーで、私の長男の清彦(現在高校教諭)、新里治、安田秀則君が後援した。
当時・千歳強直師範の技術は、本部流宗家の上原清吉先生の奥深い底無しの技術は別として、特技が27手もあったのは感心した次第である。高く評価してよいと考えた。
私は空手歴34年を迎えた。15才位から後輩の手なおし等をやり、中学三年のときには、師の代理で形の演武等もして前後すると久しい年月の指導歴になるが、常に勝れた技より高度の武道を見つけると、それに熱中するのである。(余程私を魅了させるだけ価値があればです。)
私は有名な方だけが必ずしも大家ではないと思う。少数の門弟を持つ人にもそれぞれの理由がある。流儀などというものは本来無いものである。本来とは本質的にである。本質的にとは形ではなく実技においてである。実技において流儀の差異などあろう筈がないものを、形において流儀を見出そうと考える。空手は形が大切である。しかしそれは基礎鍛錬のためのものであって、それが一点の非の打ちどころもない攻防の動作ではない。形はあくまでも形であって、剣道の形と同様に形で試合化することはできない。
形の種類は多い。攻撃防禦方法が似たものがどの形にもある。応用動作も多いだろうが、その反面、類似の攻撃防禦方法をしぼってしまえば極めて少ない動作に縮まる。
拳豪本部朝基先生が生存中は、どの大家でも彼の空手を面と向かって批判できる人はいなかった。彼は実力でその批判を封ずるからである。空手は形なくしては存在しないとよく云われるが、先生は、形はナイハンチの形一つだけ知っていて、それ以外の形はやらなかった。空手の「手」なる字の真意は、手の内即ち技のことである。それで朝基先生は形と手を完全に別だと考えていたのではなかろうか。形をよく知らなくても只一つの形を知っても大家中の大家であった。
タイ国の拳法や東南アジアの拳法には、一人演武の空手のような形はない。二人でやる攻防の技である。防具なしの自由組手に似ている。実際に蹴り込む、突き進む方法でいくと、約束組手や、自由組手や、形の応用動作では防禦できなくなるか、極めて不完全な防禦になる。そこで面も胴も着けた防具付稽古も是非必要である。しかしそれだけでは技術の向上はあっても単純に流れる嫌いがある。前突は駄目とか、足刀や廻し蹴り、廻り蹴りはいけないという制約は、千変万化を最善の手法なりとする空手は遠ざかる。「総ゆる方法の攻撃に対して対処できることは、護身を一つの目的とする以上必要である。」
(四)
古武道とは、古くから伝わった武道のことである。昔からあった武道は、精神面や形のみではなく武術として通用する実力も含まなければならない。実技として価値が高ければこそ、ともかくも伝承されて残ったはずである。
沖縄には、無手のほかに武器を持つ武術かある。サイ術、棒術、杖術、ヌンチャク術、鎌の手、剣の術、等々である。全武道家の99パーセントの方、否10万人の中の一人を除いては空手と前記古武術は表裏一体の技法であるとは考えていない。即ち、空手と剣の理が、その技法の頂点で同一の原理であると考える人はほとんどいない。
無手も古武器使用の術も、古くから伝わる古武道の範囲にあることは否定できない。私はどの武術も、煎じ詰めると技術の極致は、剣も空手も槍術も柔術も一つの理の技法になると実技では学んだ。私はそれを五年も学ぶことによって無限に広がってつきることのない底知れぬ技を知ることができた。30年間も行き詰まってハタと突当った壁は、幾年越しに幾度も幾度もあった。山に登るのにほんとに苦心に苦心を重ねるようなものであった。天井まで昇って自分で満足し、自分程研究した者はいないと考えたりした。そうすると他人のやる武道を批判するのが先になって他人の良さを理解できなくなるものである。
他流の長所をとって自分のものにする研究や、奇抜と思う技を研究する。
他人の流儀の尻につくことを潔よしとしない者は、新しい流儀をつくりたがるものである。
それはファイトがあるからであろうが、同時に名誉欲があるからでもある。
(五)
世の中には有名人から形を二、三ケ月、甚だしいのは、一、二週間稽古して、その道の師範として世の中を渡る上手な人もいるようであるが、どのようなことでもそれ相当の日時は必要である。こと空手界の場合は剣道や柔道と違って部外者との乱取や防具付稽古もなく競技化されていないので、適正な段位であるかどうかもわからない。多くの団体をまとめるためには、抜本的な解決策が必要である。
一、単独動作の形に時間をかけている。
二、形で流儀の壁をつくり、相互の技術や形の交流を困難にしている。
三、スポーツ化を嫌って高段者や師匠級のスポーツ的試合がないこと。
四、板瓦割り棒折り、巻藁突きの当身で自信過剰になりがちなこと。
五、相対動作が姿勢の美的面に重点がおかれ技が失われつつあること。
六、制限技、禁じ技を設け過ぎ、当てないように技を制限して各個人の長所が伸びなくなったこと。
七、約束的な相対動作を重要視していること。
八、防具付を毛嫌いし過ぎること、当たらないもの、当身が強くないものを判定すること。
九、受け、突き、蹴りの直線技だけに終つていること。伝来の内の技法のかわし、逆捕り、投げ、流し、極手、封じ手のような軽やかで柔らかく優雅な空手技法が失われていること。
一〇、各種の古武器使用が形だけに終始し、実力の判定がなされないこと。
以上のうち、九項については詳しく後述するが、前段の直線技法は、既に大正から昭和にかけて、広く伝わっているし、私は剛の手というています。ところが未普及の円の技法即ち柔の手は、形の空手と全く別でその技法は無限であるし、人体の急所、筋を捕らえて自然の理に順応するものである。私は空手歴30年で、この内相の武術の片鱗も知らなかった。
(六)
大阪の本部派糸東流の故国場幸盛氏はどうしてそのような流名を名乗られたのか。本部派とは、故本部朝勇先生、弟の朝信先生その弟の朝基先生、朝勇先生の長男と次男朝茂先生の五人の内どの方の技であるか。朝勇先生は昭和4年に他界された。実技面での最長老であった。実技は実際に攻撃させて指導する技で、大正年間は実技で船越義珍、摩文仁賢和、宮城長順、朝基の各大家も七十才近い朝勇先生の指導を受けられた。上原清吉先生もよく知っておられるし、これらの先生方とは上原先生がよく立ち会い稽古したことであるから本部先生の術技が国場氏のところに残っているかもわからないと考える。
私は少林派を名乗っていたし、戦前の大家をよく知っているつもりでありますが、術技が違って改まるにつれて、現在では本部派を名乗っている。
私も数年前までは力の空手、直線の空手、瓦を割ること、マキワラを突くこと、受けて突く蹴る跳ぶ、それらの応用や形の上達のために実に三十年近くも努力を払ってきた。力の空手はどれほど柔らかくしようとしても剛の手法を脱することは不可能で、中国渡来のままの形であろうと、沖縄で変化した形であろうと、一人で演武する限りにおいて直線を円にすることは困難である。形はあくまでも剛の基礎づけをなす基本であると考える。大正から昭和初期の時代に空手は普及された。空手は剛拳から入門して柔拳に至るものではなくては理想的ではない。それには無手の空手空拳から剣、杖、棒、サイ、鎌その他の古武器の操法まで必要である。
(七)
空手秘伝歌で本部朝勇先生が上原清吉先生に対する奥義相伝の歌の一節には『風に打ちなびく若竹の如に技はムチムチと軽くかわし』とあり、意味は風が吹いてきて風のために右に左に風の吹くがままになびいている若竹のように、どんな剛拳が身に降りかかってきても、真の武術としての技というものはやんわりと柔らかく、軽やかに身をかわすものだよ――そのようにやりなさい。と大正十三年秋に書き残し、実技もそのように伝授されている。
上原清吉先生は大正15年にフィリピンに渡り、終戦後引き揚げられた63才の方で、一日中立ち合っても呼吸一つ乱れない強健な体力を持っている。剣をとってはジャンバンガーでは個人的には百戦百勝し、九死に一生を得ること幾十回に及び当時の鈴木少佐や部隊長がその剣技は人間技ではないといわれる程、勇名を轟かせたものである。
剣術の武道秘歌と朝勇先生が上原先生に与えられた沖縄句調の空手秘歌に比べてみよう。
1,「打って来る太刀をたちにて受けずして体をかわしてさけならうべし」
2,「風に打ちなびく、若竹の如に、技やむちむちと、軽くかわし」(8・8・8・6の句)
「打ち」は語句を強めるための言葉、「むちむち」とねはりよく極めて柔らかくの意、軽くは、どっしり腰を落とせば極めて軽やかに動作せよであって、かわしとは身体を軽やかにさけよという意で一般的に手で受けたり払ったりではなく「水の流れのように、大自然の動きに逆うな」である。
私は、本部流を学んでからマキワラだこが完全になくなった。しかし握拳は以前よりも強く硬くなった。今年の初め頃、東京大学に行っている長嶺さんという女の子が次のような評価をした。
「ここ(上原清古道場)に来る人は初めの一、二ケ月は立合う日も強張って何だか恐いみたい。でも三ケ月も稽古すると皆ニコニコして楽しそうで人相が全然違うみたい。ほんとに不思議? ほんと……」
その言葉は客観的に精神の高揚と高い技術が立合う稽古の中から自然に修得され、角ばったゴツゴツの陰険なものから角のとれた円相の空手と急テンポに(二、三ケ月の短期間に)移り替わる証明となるであろう。
(八)
参考のために昭和38年9月上旬熊本市大洋デパートにおいて沖縄展開催の時、客席から撮った上原清吉範士と翁長武十四君の実技を紹介しよう。翁長君の拳は極めて強力でスピードがある。前突きで充分に相手を倒す技を身につけているが、逆突きだけにたよると前突きは無力になる。前突きも充分練習しなければ空手にはならない。心して練習して、点数がとれるようにしなければ護身の上では半減することうけあいである。
空手の本領は当身にある。が、しかし、当身を加えることは最悪の手段であって、現実に強力な当身を用いることは危険である。
しかし当身を変じて逆手や投げで身を護ることができれば甚だ結構である。
この写真は矢継ぎ早にくり出す必殺的な約束なしの剛拳を、その一瞬一瞬を的確に捕らえて封じ、翁長君の体全体を宙に浮かばせて投げようとする瞬間をとらえている。
ありとあらゆる技が飛鳥のような動きとなって観衆を魅了した五日間であった。空手を練習し空手をよく知っている筈の沖縄出身の観客の一人はこういった。
「約束ごとではないか」
「いいえ」
「不思議だ、ほんとに素晴らしい。こんな素晴らしい空手があることは知らなかった。私は生まれて初めて見る真の空手の技を見た。熊本市内だけで見せるのは勿体ない。九州どころかこれこそ東京のど真ん中で紹介する空手だ。その価値は充分にある」と。
この技こそ、円であり、柔であり、円熟して自然の理に順応して動く技である。
工夫して創作できる技法は、私の三十余年の武歴を通して一つもなかった。日本本土の空手の大家も立ち合って初めて想像を絶する技であることを認めている。
(九)
私は本部流に入って五年になるが、今尚未知の技を一日一日と体験し、嶮しい山を登っている心境である。そして、ようやくあらゆる武道が、古武術が、その術技の頂点にただ一つにしぼられる実感を意識つつある。
七段や八段の者も入門して感心するばかりであるが、練習の困難さのために長続きはしない。ほとんどの人は一日や二日で来なくなる。私は五、六年前から技の不思議さに感心させられた。昔の真の大家はよく人体の総ゆる急所を知りつくし、人体の動きを合理的に捕え、実際的な技に長じ、よくもマア、科学的に我々の考え及ばないような先の先の手を創出したものだと、偉大な武的天才的才能に驚くほかない。
私がどれ程研究を続けても、この技の片鱗さえ見出すことはできないかもしれない。どんな暴漢や悪人でも傷つけては真の武にはならない。武が至らざる者は相手の差がないために相手を傷つけるから、必殺の拳が備わるまでになれば、それを用いてはならない。相手との実力の差が大きければ相手を傷つけないでも捕り押さえることができよう。
そこまで至る武技は困難であろうが不可能ではない。相対稽古は、微笑を浮かべて声を荒立てずに眼に角立てず楽しく柔らかく練習することが大切である。
角から丸へ、剛から柔へ、直線から円へ、剛柔相交え、変化して万技となり、怒りが消えて相和する稽古になるとき、その技は美しく優雅ともいえる格調高い人の動きを示すであろう。それはまさに聖なる武となるであろうし、その拳は聖なる生命の拳であろう。
私は友の津波孝明その他師範と相談して私達がこれまで会ったことのない、知りうる限りの偉大な大家に、協同で次の題字を贈った。それは、私が、世界中で、ただ一人の人を除いては、あげられないものである。その題字は左から右へ「拳聖」と大書された額であった。61歳の還暦を祝って本部流宗家上原清吉先生の居間に掲げられている。
(弁護士・本部流師範)
『武道春秋』(武道タイムス、昭和41(1966)年10月1日発行)。比嘉清徳先生は、昭和36年入門、本部御殿手範士十段。後に生道流神気古武道、神道流を興されました。上記文章は、本部御殿手に関する戦後もっとも古い文献の一つで、比嘉家の許可を得て掲載しています。