書評『武芸流派大事典』
『武芸流派大事典』は作家の綿谷雪氏と山田忠史氏編集による書である。内容は文字通り、日本の武芸流派の名称と簡単な解説を加えた事典である。初版は1969年に出て、増補改訂版が1978年に出ている。
この書には本部流も取り上げられている。ありがたい話であるが、記事には残念ながら多くの誤記、誤植が含まれている。まず見出しに「本部派」とあり、解説に「本部流ともいう。沖縄の人、本部朝基が祖」とあるが、本部朝基が自らの流派名を本部派と名乗ったことはない。本部朝基が免状に書いていた正式な流派名は「日本傳流兵法本部拳法」であり、本人はその「正傳指南」を名乗っていた。また、日常的に本部流と呼称していたのは、直弟子の方々から伺っているし、昭和15(1940)年の琉球新報記事からも確認できるが、本部朝基が存命中に本部派と表記した文献は見たことがない。流派名にはその流派の理念や思想が含まれているので、正確に記すべきである。
また、解説には本部朝基は「首里当蔵町に生まれた」とあるが、生まれは首里赤平町である。「本部安司の三男」は「本部按司の三男」の誤記である。琉球王国の位階名は本土の人には馴染みがないのでやむを得ないが、綿谷雪氏は時代考証家でもあったそうだから、できれば正確に表記してもらいたかった。
師匠についても「東恩納寛量および松茂良興作に泊手を学んだ」とあるが、東恩納先生は那覇手であり、かつ宮城長順先生(剛柔流)や摩文仁賢和先生(糸東流)の師匠ではあるが、本部朝基の師匠ではない。あるいは糸洲安恒先生と取り違えたかもしれないが、空手史の基本的知識がある者ならすぐ気づく誤りである。
また、掲載されている系図にも誤りが多い。本部朝基の父を本部朝茂としているが、朝茂は兄・朝勇の次男、すなわち朝基の甥である。父の名は朝真である。また、この系図には「上原清吉(十二代宗家。聖道館)」とあるが、上原先生は本部御殿手の系統である。本部朝基を祖と書いているのに、何の説明もなしに十二代宗家と表記が来るのはおかしい。本部拳法と本部御殿手をまとめるにしても、但し書きが必要である。そうでないと、一般の読者は何のことかさっぱり分からない。
また、この系図には本部朝明氏の名前があるが、朝明氏は朝勇先生の長男であるが、朝基の弟子ではない。また、朝明氏の下に7名の弟子の名が記載されているが、このうち実際に師事したのは1名である。これらの中には本部朝正の弟子や上原先生の弟子の名が載っているが、朝明氏が亡くなったのは昭和31年であり、これらの人は全く面識がなかった。なぜこのような誤記が起こるのか不思議である。ちなみに、本部朝正は朝明氏と一緒に空手を稽古したことはある。家は隣同士だった。
また、本部朝基の弟子に屋部憲通の名前があるが、屋部先生は松村・糸洲門下で兄弟弟子であり、むしろどちらかと言えば本部朝基より先輩にあたる人であるから、弟子と書くのは誤記にしても不適切である。さらに弟子の中に「宮島長順」の名があるが宮城長順の誤植であろうか。宮城先生は兄・朝勇には師事していたそうだが、本部朝基に師事したという話は聞いたことがない。他にも本部朝基に長く師事した東恩納寛(亀助)氏や丸川謙二氏の名前が漏れているのは残念である。
綿谷氏らは当時刊行されていたいくつかの空手書や武道雑誌を参考にされたようだが、本部流や本部家には取材に来られなかった。どの文献を参考にしたかもほぼ特定できるが、誤記もそのまま引き継いでいる箇所があるし、参考文献からの引用を単純に書き間違えたような箇所もある。それと、この系図の中には上原先生から破門になった人物も含まれている。系図作成の際に、参考にした文献にその名があったかもしれないが、もし上原先生が存命中にこの書に目を通していたら正式に抗議したであろう。
当時公刊されていた空手書はまだ少なかったし、それらの書の中の空手史の記述も誤りが多かった。あれからずいぶんと空手史研究も進んでいるから、当時の時代状況を考えるとやむを得ない面もあるが、それにしても、手法はあまり学術的とは言えない。端的に言えば、史料=資料批判が不十分である。また、出典情報が十分でないため、後代の研究者が一体この記述は何の史料(資料)からの引用か、追跡することを難しくしている。もちろんこの書が大変な労作であることは間違いない。それは高く評価されるべきである。しかし、編集の方針が学術的とは言えず、記事には多くの誤りが含まれているため、参考文献として扱うには注意が必要である。