本部流と本部御殿手
2022年11月16日

文献における「本部流」の最古の表記例は、昭和15(1940)年に琉球新報に掲載された「空手道の先輩・本部朝基翁」と題する記事である。この年、東京で本部朝基の後援会が発足し、発起人には小西康裕氏(神道自然流)やボクサーの堀口恒男氏(ピストン堀口)らが名を連ねた。この記事の中で「本部流實戦護身術」という流派名が確認できる。
弟子の丸川謙二氏によれば、正式な流派名は「日本傳流兵法本部拳法」だが、本部朝基は普段、通称として「本部流」と称していたという。本部朝基の跡を継いだ宗家・本部朝正も、今日に至るまで「日本傳流兵法本部拳法」と「本部流」の名称を使用し続けている。
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左の写真: 本部流大道館前にて(大阪府貝塚市、昭和54〔1979〕年)。
人物(左から): 與那城薫(本部朝勇曾孫)、本部澄子(本部朝勇孫)、上原清吉、本部晶子(本部朝正妻)。
このように、本土では戦前から本部朝基の空手流派を「本部流」と呼んできた。
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一方、沖縄では昭和36(1961)年、上原清吉が本部御殿伝来の武術体系のうち、突き・蹴り・型といった空手部門を「本部流」と称し、本部流古武術協会を設立した。確認できる最古の事例は、昭和38(1963)年に万座毛で撮影された写真で、上原先生の帯に「本部流手(もとぶりゅうてぃー)」の刺繍がある。「手」は武術を意味する。
右の写真: 演武・上原清吉(沖縄県恩納村万座毛、昭和38〔1963〕年)。

上原先生は昭和45(1970)年、取手(柔の手)や武器術の部門を「本部御殿手」と称して公開し、本部御殿手古武術協会を設立した。しかし、空手部門の「本部流」という表記も引き続き使用し、また組織としての本部流古武術協会も存続した。
左の免状 は、本部御殿手継承者として、昭和51(1976)年に上原先生から宗家へ授与されたものである。この免状の肩書の欄には、「本部御殿手古武術協会長」と「本部流古武術協会総本部長」という2つの組織名と、その長の名称が併記されていることがわかる。
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上原先生は亡くなるまで、本部朝勇から教わった武術のうち、空手部門は「本部流」、その上の部門は「本部御殿手」と区別して使い続けた。そのため、沖縄県空手道連盟には「本部流」として加盟し、門人たちも空手の試合に出場する際は「本部流」として登録させた。
右の写真: 「沖縄県空手道連盟役員名簿」。顧問の欄に「上原清吉、本部流」の表記が確認できる。出典:『創立十周年記念誌』沖縄県空手道連盟(1991年)。
このように、本土では本部朝基の空手を「本部流」、沖縄では本部朝勇の空手部門を「本部流」と呼称し続けてきた。そして平成15(2003)年に、本部朝正が本部拳法の宗家に加えて本部御殿手の宗家も兼任するようになったため、両流派の総称としても「本部流」が用いられるようになった。その際は、「本部流(日本傳流兵法本部拳法・本部御殿手)」と表記し、本部流の中に両流派が包括されていることを示している。
しかし、こうした歴史的経緯が正しく理解されず、誤った知識に基づき事実と異なる主張をする人々もいる。本部朝正は、それぞれの流派名の歴史性を大切にし、宗家としての立場から、正式名称・通称・総称として、「本部流」「本部御殿手」「本部拳法」を適切に使い分けている。