本部御殿手について
由緒と技法

本部御殿手は、かつて「御主加那志前の武芸(琉球国王の武術)」とも称された、琉球王族・本部御殿に代々伝承されてきた古武術である。「手(ティー)」とは琉球語で武術を意味し、「本部御殿手」はすなわち「本部御殿に伝わる武術」を指す。
その内容は、突き・蹴りを中心とする空手技法に加え、「取手(トゥイティー/とりて)」と呼ばれる関節技や投げ技、さらに各種の武器術を含む総合武術である。
本部御殿手は、王朝時代の武術に見られるように「門外不出」「一子相伝」の方針で守られ、本部家の嗣子のみが伝承を許された。満6歳になると修業を始め、元服の頃には一通りの技法を習得するよう指導されていた。
伝承の危機と復興

琉球王国滅亡後は、第11代当主・本部朝勇が唯一この武術を知る存在となったが、家運の衰退とともに継承は危機に瀕した。
この状況を憂えた朝勇師は、弟子の上原清吉の才能を見込んで技を授け、さらに和歌山に住む次男・朝茂(1890–1945)への伝承を図った。上原少年は期待に応え、大正13(1924)年に和歌山を訪れ、半年間にわたり朝茂に御殿手を伝授したことで、御殿手は血筋に戻され、失伝を免れた。
しかし、昭和20(1945)年の大阪大空襲により朝茂が戦死すると、御殿手は再び継承の危機に陥る。昭和22(1947)年に上原はフィリピンから帰郷するも、戦争体験の影響で武術から距離を置いていた。
それでも、かつての上原の評判を聞いて訪れる者に応じて徐々に指導を再開し、昭和36(1961)年には「本部流」として正式に流派名を掲げ、教伝を始めるに至った。
当初は朝勇師の「本部家以外に教えるな」という遺訓を守り、取手は一部の師範にのみ伝え、一般には突き蹴り主体の空手を教えていた。しかし、技の散逸を惜しんだ上原は、昭和45(1970)年に御殿手の全面公開を決意し、「本部御殿手古武術協会」を設立、会長に就任した。
本部家への返還と現代への継承

門弟は増えたが、「御殿手を本部家に戻す」という朝勇師との約束は果たせぬままであった。幾度か本部家関係者に働きかけたものの、成果にはつながらなかった。
転機は昭和51(1976)年、神戸にて朝基の嫡男・朝正と出会ったことで訪れる。上原は御殿手の返還を願い、朝正はその技に感銘を受け、父・朝基の「日本傳流兵法本部拳法」とあわせて、伯父・朝勇の「本部御殿手」も継承することを決意した。
昭和59(1984)年には日本古武道協会にも加盟し、本土でも本部御殿手の普及が始まった。平成15(2003)年、上原は白寿(99歳)の祝賀の席にて宗家の座を朝正に譲り、約80年にわたる師との約束を果たした。