昭和30年代の本部御殿手(5) ―前編―

生道流神気古武道宗家、神道流宗家

比嘉清彦

出会い

・私の父・比嘉清徳は、昭和30年代に沖縄古武道協会を作るために古武道の名人がいないか沖縄中を探し回っていました。それで、誰からその話を聞いたのかは忘れましたが、父は「すごい武士がいる」という噂を耳にし、それで上原清吉先生を訪ねて行きました。

 

・父が訪ねていったとき、上原先生は三戦を使って見せたそうですが、それを見て父はびっくりしました。上原先生が三戦の突きを出すときなど、筋肉の鳴る音がはっきりと聞こえたそうです。それで、父はこの方はすごい人だと思いました。しかし、そのときは父ももちろん上原先生が実際どれくらいの技をもっているのかは分かりませんでした。

 

・昭和36年(1961)に沖縄古武道協会が発足して、第一回の古武道大会が開かれました。父がこの大会を主催しました。この大会には当時のそうそうたる武術界の長老たちが参加しました。父が隠れ武士を探し始めた動機は、ふと思い立っただけです。父は根っから武術が好きでしたから。

 

・沖縄古武道協会が発足してしばらく経ってから、上原先生が父を訪ねてこられました。そのとき、上原先生から「あなたは会長だから、是非この(御殿手の)技を習ってください。この技を知っていたほうがいい」とのお誘いがあり、それで父は上原先生に師事することになりました。父は入門してはじめて、上原先生の本当の技の数々を見て、これは途轍もない技だと驚きました。

 

・当時、上原先生はバーを経営されていました。場所はいま道場がある宜野湾市大謝名です。上原先生はそれ以前、戦後復員してきたときは最初バス会社に就職したそうです。上原先生はフィリピンから帰ってきても、戦争のトラウマから弟子を取る気はなく、刀を見る気もしない、しばらくは武から遠ざかっていました。しかし、バス会社に務めていたあるとき、若者が暴れているのを見て、その若者を取り押さえたことがあったそうです。

当時の稽古法について

元手(三戦)
元手(三戦)

・空手でよく見かける「その場基本」のような稽古はありませんでした。「移動基本」は当時からありました。

 

・突きは、構えた前の手のほうから突く前手突きが基本でした。突くときは体を半身に構えて、入身しながら突きました。半身になる理由は突き手のリーチを伸ばすためです。蹴りも前の足のほうから蹴るよう教わりました。

 

・型は、三戦、松三戦、ジッチン等がありました。三戦は元手のことです。当時は三戦とも呼んでいました。私のところではいま元手三戦と呼んでいます。この型はおそらく首里の三戦だろうと思います。三戦の稽古で、ずっと前へ進んでいって適当なところで反転するというのは、私が入門した頃は確かにそういう稽古もしていました。ただ(定型的な)型としての三戦も当時からありました。私自身も型として教わりました。

 

・(もとから元手(三戦)は定型的なものとしてあったのでしょうか、との問いに)

おそらく首里三戦として、最初から型としてもあったと思います。

 

・松三戦は松村宗棍から伝えられた開手の三戦です。この型は技の修業を一通り終えた人に教える型です。ジッチンも奥伝の型です。

 

・私は、最初、父から取手を教わりました。父が上原先生から技を教えてもらうと、家に帰ってきて私を稽古相手にして復習していたからです。のちには、私も上原先生から直接取手を教わるようになりました。当時の弟子に材木屋をしていた松田(梅一)さんという方がいました。この方が上原先生から最初に取手を習った人だと思います。

剣術について

・<比嘉清徳先生は早い時期から剣術を教わったそうですが、翁長武十四さんらは剣術は教わらなかったと聞きました、との問いに>

 

上原先生は、父や師範クラスには早い時期から剣術を教えていました。ただ、フィリピンでの戦争体験が上原先生にはトラウマになっていて、刀を見るのはいやだと話されていました。だから、師範クラス以外の一般門弟にはまだ剣術を教える気にはならなかったのだと思います。私自身は上原先生から直接習いましたが、私からあとの世代は一般門弟も剣術の指導を受けるようになったと思います。

 

・父は、上原先生の技は太刀の技が基礎になっている、と語っていました注1。御殿手の技は、剣の技が元になっていると。御殿手の剣術は当時から二刀流が基本でしたが、一刀の技もありました。私が教わった稽古内容には、剣の基本的な使い方、体捌き、それから居合取り等がありました。

 

・御殿手の剣技は連続で行くのが基本であると教わりました。朝勇先生との稽古では、太刀は相手を斬ったらすぐ次の相手を斬りにいくよう心掛けなさいと指導されたそうです。また、複数相手を想定して連続して斬りながら「何番目の太刀の刃筋が違っていた」と指摘されたこともあったそうです。そのときの稽古がまたフィリピンでの戦いでは身を守るすべになったと、上原先生は話されていました。

仲地清徳氏
仲地清徳氏

 

・上原先生の剣の技はすごかったです。フィリピン時代に次のようなエピソードがありました。当時、フィリピンに「じがん流宗家」を名乗る人物(木佐貫稔)がいました注2。この人は剣術の達人だったらしく、あるとき仲地清徳先生注3が空手の型を披露するのを見て、「あんなのは小刀一本で勝てる」と豪語したそうです。それを見かねた上原先生が「空手の型の中には実際の技が隠されているのであって、あのまま戦うわけではない」と言いましたが、なお相手が侮る態度を改めなかったため、上原先生は「それならば私が相手をしましょう」と言ってこの人物と勝負をすることになりました。

 

それで練習試合が行われたのですが、上原先生は相手よりも早く動き、鍔落とし、つまり相手の小手を打って相手の刀をたたき落とし、一瞬で勝負がついたそうです。この人物は上原先生の実力に驚き、それで上原先生から剣術の指導を受けるようになりました。その後、彼は上原先生の指導のおかげで実力がつき、そのお礼に白鞘の日本刀を上原先生に進呈したそうです。

 

・上原先生から剣術を教わってから、あるとき、私も本土で居合を習ったというZ氏と手合わせをしたことがあります。そのとき、私のほうが早く動いて制したので、Z氏はびっくりしていました。それで、彼はその後私から剣術を習うようになりました。また、同じく居合をしていたH氏という人がいました。この人も私の居合の速さにびっくりして、それで私から居合を習うようになりました。

 

  

注1:日本では刀は(特に江戸時代以降)打刀と太刀で区別があるが、本部御殿手では刀一般を指して「太刀(たち)」とも呼ぶ。また剣術も「太刀の手(タチヌティー)」と言う。琉球方言(語)には、日本語の古称がそのまま残っている例があり、こうした用語法もその一例かもしれない。

 

注2:木佐貫稔(きさのきみのる)。鹿児島県出身。じがん流はおそらく示現流のことと思われるが、示現流宗家は東郷家なので、あるいはその分派の系統だったのかもしれない。なお、示現流の分派に慈眼流という流派が薩摩にあったらしい。


注3:仲地清徳(なかちせいとく)。沖縄県出身。当時、フィリピンの日本人小学校で教頭をしていた。空手は大城朝恕に師事。また、本部朝基にも師事したことがあったらしい。

 

(2007年5/16、18、2009年3/12、2013年8/30、9/16、10/12、2014年6/7、8聞き取り)