昭和30年代の本部御殿手(5)中編
生道流神気古武道、神道流宗家
比嘉清彦
宮城長順と照屋亀助
・大正末期、宮城長順先生(剛柔流開祖)が友人の照屋亀助注1さんと一緒に本部朝勇先生のところに習いに来ていました。当時、朝勇先生は沖縄空手界では中心的な存在でしたので、多くの人が朝勇先生を慕って習いに来ていたのです。宮城先生もそのうちの一人でした。
・朝勇先生は宮城先生に教えるとき、同じ技は続けて使わずに、毎回少しずつ違った技を使って教えたそうです。これは簡単に技を覚えられないようにするための配慮でした注2。また、取手の相対稽古では、朝勇先生は素早く体捌きをして一瞬で技を掛けましたから、宮城先生も照屋さんも、いま一体自分に何の技が掛けられたのか分かりませんでした。気がついたら朝勇先生に投げられている、といった感じでした。
そこで二人は一計を案じて、宮城先生が稽古しているときは照屋さんが傍らでその様子を見ている、また照屋さんが稽古しているときは宮城先生が傍らでその様子を見ている、というふうにして、お互いに朝勇先生が何の技を使ったのかを観察して、稽古から帰ったあと、二人で朝勇先生が使った技を思い出しながら、自主稽古をしていたそうです。
・照屋亀助氏について
照屋亀助さんはやはり東恩納寛量先生の弟子で、宮城先生の兄弟子に当たる人です。通称はカミィッチーと言いました。
・<照屋氏は戦後まで生きていましたか、またこの方の弟子はご存じですか、との問いに>
照屋さんの戦後の消息は分かりません。また、この方の弟子という人も、戦後の沖縄空手界では聞いたことがありません。そう考えると、照屋さんは戦争前か戦時中に亡くなられたのかもしれません。
・宮城先生は一般には取手を披露することはなかったそうですが、ただ一度だけ、朝勇先生の死後に、ある演武会で投げ技を披露したことがあったそうです。そのときの宮城先生の投げ技は、御殿手のようなやわらかい投げ方とは違って、もっと豪快で力強い投げ方だったそうです。
・宮城先生の投げ方については、次のようなエピソードが伝わっています。朝勇先生があるとき、宮城先生の投げ方を見て、「あなただから、そういう(投げの)手が使えるのであって、他の人が真似をして使ったらどうするのですか。決して簡単に教えてはいけません。他の人もあなたと同じことが出来ると思わないように。あなたは剛力だからそういう投げ方ができるのです。他の人が真似をすると、稽古相手の体を痛めつけてしまう恐れがあります」と言ったそうです。
注1:照屋亀助(てるやかめすけ、明治20年 - ?)。沖縄県島尻郡小禄村(現・那覇市小禄)出身。照屋氏の実家は上原先生の実家の隣にあったので、上原先生は照屋氏のことをよく知っていた。後に、照屋氏は那覇市西新町(現・那覇市西、辻付近)にあった大正劇場前の埋め立て地に2階建ての家を建てて引っ越した。2階建ての家は当時の沖縄ではまだ珍しかったようである。
注2:もし簡単に技を教えて相手がそれを悪用したりするとまずいので、相手の人柄や人間性を見極めるために、こうした指導方法を採用したのである。また、臨機応変に対処する能力を伸ばすという肯定的な側面もあった。この指導方法は、上原清吉も晩年まである程度維持していた。
マチャー文徳
・糸満に、福建省で修業してきたマチャー文徳(本名・金城松)という人がいました。朝勇先生はこの人と親交が深く、ある時上原先生をお供に文徳翁を訪問したそうです。そのとき文徳翁が上原先生の実力を見るために、好きに突いてきなさいと言いました。上原先生が朝勇先生のほうを見ると、「自分といつもやるように、文徳とやりなさい」と言ったので、上原先生は文徳翁に思いっきり突いていったのですが、見事投げられてしまいました。そのあと、文徳翁は「イイナンジチョーサー(よく難儀して鍛えているね)」と上原先生を褒めたそうです。文徳翁は上原先生の突きのスピードが速いことや、投げられてもしっかり受け身ができたのを見て、よく稽古していると褒めてくれたわけです。
・上原先生は、文徳翁に「是非奥義を教えてください」とお願いをしたところ、文徳翁は「按司前(アジメー、朝勇先生)が奥義をもっているから、アジメーから習いなさい」と答えたそうです。
・<比嘉清彦先生は以前雑誌注1で、新里仁安氏(剛柔流)が同じように文徳翁に投げられたエピソードを紹介されていましたが、この話は上原先生が語ったものですか、との問いに>
いえ、この話は父が仲里周五郎さん(小林流)の道場で、比嘉世幸さん(剛柔流)から直接聞いた話です。あるとき、宮城長順先生と弟子の比嘉世幸さん、新里仁安さん等が文徳翁を訪ねていって、「是非奥義を見せてください」と頼みました。すると、文徳翁はハチマチ(鉢巻き)を頭に巻いて、カチャーシーみたいな踊りを軽快に踊り始めました。その様子を見て、比嘉世幸さんは「この翁は少し頭が変なのかもしれない」と思い、新里さんはまだ若く血気盛んだったので、「馬鹿にするな、奥義をみせろ」と怒って、かかっていったところ、文徳翁の踊りの手が一瞬にして投げ手に変わって、新里さんは庭に投げ飛ばされてしまいました。文徳翁は奥義を見せろと言われたので踊りを踊って見せた、その踊りの中に実は奥義が隠されていたわけです。比嘉世幸さんは、この時の文徳翁の動きを見て、この方はすごい人だと思って感心したそうです。そのあと、宮城先生たちは文徳翁を試した非礼を詫びて辞去したそうですが、帰りの道中、気まずくて誰一人として口を聞く者はなかったそうです。
注1:比嘉清彦「時には『浜千鳥』を舞うが如く」『月刊青い海』第8巻第2号、青い海出版社、昭和53年
取手について
・<比嘉清徳先生は取手は松村宗棍から本部朝勇に伝えられたという説を以前書かれていましたが、この説は上原先生が語っていたのですか、との問いに>
いえ、これは上原先生から聞いた話ではありません。この説は父の推測だったのですが、松村先生について、次のようなエピソードがあるからです。それは松村先生が糸洲安恒先生と組手の稽古をしていて、「おまえの拳は当たれば石をも割るほどの威力があるかもしれぬが、わしには一発も当たらぬであろう」と言いながら、ひらりひらりとかわして一発も当てさせなかったというのです。この話は父が知花朝信先生から直接伺ったのですが、このエピソードの松村先生の姿は本部御殿手の体捌きを彷彿とさせます。それで父は取手は松村先生から伝わったのではないかと推測したわけです。
・<比嘉清徳先生が師事した先生方のうちで、上原先生以外に取手を教えていた方はいましたか、との問いに>
遠山寛賢先生(修道館館長)や知花朝信先生(小林流開祖)は取手はご存じではありませんでした。ただ岸本祖孝先生は取手ではありませんが、それに似た技は知っていたのではないかと思います。これは父が岸本先生から伺った話ですが、あるとき岸本先生が先生の父上と一緒にどこかの村祭りの見物をしていました。そのとき、村の青年たちが岸本先生に手(ティー)を見せてほしいと頼んだそうですが、先生は断りました。すると、青年たちは怒って、岸本先生に棒で殴り掛かってきたそうです。それを、岸本先生は彼等の棒を掴んで取りあげながら、ことごとく投げ飛ばしたそうです。奪った棒の数は、山原(やんばる)の薪束で2束くらいだったそうですから、1束15本とすると30本くらいでしょうか。これだけの人数を投げたのなら、岸本先生は投げ技は知っていたのではないかと思うのです。
・<他に沖縄に伝わる取手のエピソードはご存じですか、との問いに>
取手ではありませんが、知念三良先生(山根流棒術)があるお祝いの席で、「今日は舞の手を見せようね」と言って、三尺棒を2本もって踊ったことがあったそうですが、その姿はあたかも舞を舞うような姿だったそうです。この話は近所(首里儀保町)に住む「ナブーおばさん」から聞きました。ナブーおばさんはこの宴会に出席していて実際にその光景を見たそうです。ナブーおばさんの名字はたしか知念だったと思います。ひょっとすると知念三良先生の親戚だったかもしれません。
・湖城流の湖城嘉富先生の投げ技をある演武会で見たことがあります。湖城先生の投げ方は、御殿手とは違って、重心は低く、膝は曲げていました。ただ投げそのものは御殿手と似ていたように記憶しています。関節技については、そのとき披露していたか覚えていません。足の使い方は何かボクシングのフットワークのようでした。
・<沖縄古武道協会のメンバーで、上原先生以外に取手を知っていた人はいましたか、との問いに>
いいえ、上原先生以外で取手を知っている方はいませんでした。
・<新垣清先生の『沖縄空手道の歴史』に、義村朝明注1が本部朝勇と金城大筑注2に捕手(取手)を教えたと書いてありましたが、この説はご存じですか、との問いに>
初耳です。上原先生からも聞いたことがありません。信憑性の薄い説ではないでしょうか。
・<金城大筑の弟子の喜納昌盛先生注3は取手を教えていましたか、との問いに>
喜納先生は沖縄古武道協会の仲間でしたが、喜納先生には取手は全然伝わっていません。ただ、弟子の伊佐真勇さん(号・海舟、大筑傳古武術三代目宗家)は上原先生から取手を習っていました。
・<祖堅方範先生(少林流松村正統開祖)が上原先生に取手を教えた、という説もあるようですが、との問いに>
祖堅先生も沖縄古武道協会の仲間でしたので、父と上原先生とで道場を訪ねたことはありますが、あくまで対等のお付き合いで、師事したという事実はありません。また祖堅先生は取手は教えてはいませんでした。ただ祖堅先生の弟子の喜瀬富盛さんは當真嗣安さん(沖縄拳法、のち正道館)と一緒に、上原先生のところに取手を習いに来ていました。2人は仲が良かったです。
注1: 義村按司朝明(よしむら あじ ちょうめい、1830-1898)。義村御殿4世。唐名・向志礼(しょうしれい)。実父は向氏奥武殿内2世・奥武親方朝昇、実母は向氏松嶋殿内(本部御殿分家)・松嶋親方朝常の娘・思戸(うと)。1847年、義村御殿の跡目となり家督相続。頑固党(独立派)の代表的人物で、長男・朝真と共に清国へ亡命して独立運動を展開したが、志を果たせず当地で客死。義村御殿は本部御殿の北隣にあった。
注2: 金城大筑(きんじょううふちく、1834-1916)。本名・金城三良、俗称カニーウスメー。大筑は現代の警察署長に相当。釵術の名人で、弟子に喜納昌盛のほかに屋比久孟伝がいる。
注3: 喜納昌盛(きなしょうせい、1882-1981)。大筑傳古武術二代目宗家。沖縄県旧中城村(現・北中城村島袋)出身。18歳のとき、村の先輩や友人から釵の手ほどきを受ける。のち、金城大筑に正式に釵術を習う。弟子に伊佐真勇のほかに喜屋武真栄、喜納昌伸、泉川寛得等がいる。
(2007年5/16、18、2009年3/12、2013年8/30、9/16、2014年6/7、8聞き取り)