昭和30年代の本部御殿手(3)

昭和34年入門

翁長武十四

翁長武十四氏
翁長武十四氏

・昭和18年(1943)年生まれ。高校入学と同時(昭和34年、1959)に上原清吉先生に入門した。入門する前に剛柔流を少しやっていた。入門のきっかけは、工業高校に進学した与儀俊一という友人が先に入門していて、その縁で私も入門することになった。彼は中学時代、柔道チャンピオンになって、高校卒業後はブラジルへ移住した。


・当時から上原先生は本部流を名乗っていた。上原先生は本部朝勇先生の弟子だった。上原先生は朝勇先生の長男だかの人に技を伝えるために、和歌山に行って教えたと話されていた。朝勇先生は辻町(チージ)に住んでいて、上原先生はそこへ醤油の行商に行っていた。それで朝勇先生と知り合うようになり、入門したそうである。兄弟子たちは型の稽古をしていたが、上原先生は型の稽古には参加せず、最初はつま先立ちで突き蹴りの基本練習ばかりさせられていたそうである。

 

・朝勇先生から琉歌の巻物をもらったと言っていた。この琉歌は最初トラジュー(本部朝茂)のために作ったもので、フィリピンに旅立つ時に上原先生にも贈った。当時私たちもこの琉歌を暗誦させられたので、いまでもいくつかはそらんじることができる。

 

・上原先生は米軍相手にバーを経営していた。米軍相手のバーは厳しい衛生検査(Aサイン)に合格した人しかできなかった。

 

・稽古場所は普天間飛行場のそばで、今は人家が建ち並んでいるが、当時は墓や原っぱだったので稽古ができた。ほかに上原先生が経営するバーの板張りのフロアでも稽古した。


・弟子は私を含め3人くらいだったと思う。上原先生は空手を教えていることを公にはしていなかった。入門者はみな知人から紹介された人達である。


・最初の稽古は突き、蹴りが主体だった。ボクシングのグローブをはめて、上原先生の腹をそのまま突いたり、突き手を払われたりして稽古した。当時20歳くらい年上の先輩がいたが、その人とも稽古した。その人は粗っぽく顔面を突かれたりしたが、上原先生は技量が高いのでそういうことはなかった。


・突きは左右どちらでもよかったが、必ず前の手で突かせた。ボクシングでいうジャブのような突きである。その頃、前手で突かせる(今日でいう刻み突き)流派は、沖縄には他になかったので非常に珍しかったと思う。普通は前手は受け手で、突きは引き手のほうから突かせるスタイルが常識の時代である。蹴りも前足で蹴るように教えられた。足の親指付け根で正面を蹴った。


・立ち方はつま先立ちで膝を曲げないように教えられた。これはいまでも御殿手ではそうだが、当時もそう教えられた。

 

上原清吉と翁長武十四、万座毛、昭和38年
上原清吉と翁長武十四、万座毛、昭和38年

・突き蹴り主体の稽古の次は、突いていって投げられる稽古に移った。突いた者を上原先生が投げるのである。上原先生の投げ方は、合気道のようにぐるぐる回るのではなく、突いた者をそのまま投げるか、あるいは足を払って投げるような投げ方だった。他には、右手を相手の首に巻き付けて投げる投げ方もあった。

 

・型は3つか4つは教わったと思うが、私は型に興味はなく組手主体だったので、いまではあまり覚えていない。開手と握拳の三戦を習った。松田梅一さんとブラジルに移民した与儀さんは、三戦の稽古が主だった。上原先生が教えた三戦は、前に進んでいって、何歩進んだら反転するとかではなかった。練習ではそういった反転はなく、ただずっと前に行くだけ。三戦は、体のできる人がしていた。相当力を入れていた。拳を注意していた。

 

・昭和36(1961)年に、那覇劇場で第一回古武道大会があった。出場者は道場はもっているが、規模の小さい、弟子の数も少ない、あまり知られていない人達が中心だった。比嘉清徳先生がこの大会を主催した。私も見学に行ったが、若手はこの大会には出場しなかった。上原先生はジッチンを演武した。

 

・入門当初から取手があることは聞いていたので、「先生、それも教えてください」と言ったが、すぐには教えてくれなかった。投げの稽古の後に、ようやく取手を教わるようになった。入門4年目くらいである。関節技だけでなく投げ技も含めて取手と言っていた。私は琉球大学に進学して空手部にも所属していた。大学では組手を熱心にやっていたので、本部流と掛け持ち状態だった。

 

・当時、上原先生はいろいろな先生方と交流があって組手研究なども一緒にされていた。また、そうした人達に対して取手を教えることもあった。しかし、中には「空手とは違う」とか「あんな技(取手)が空手にあるものか」とか、陰で批判的なことを言う人もいた。当時から上原先生は取手(トゥイティ)という言葉を使っていたが、そんな言葉は聞いたことがないとか、おかしいと言っていた。実を言うと、私も当時は取手を習っていますと言うのが恥ずかしくて、ただ空手を習っていますとだけ言っていた。とにかく、取手なんていう武術は沖縄には存在しない、と多くの人は思っていた。

「糸洲十訓」(明治41年)の取手の記述。
「糸洲十訓」(明治41年)の取手の記述。

・<糸洲十訓(1908)に「取手」という表記が出てきますがご存じですか、との問いに>

いえ、知りません。

 

・<最近では他の流派でも取手という言葉を使ったり取手を教えているところもありますが、との問いに>

当時、上原先生以外に、取手という言葉を使っているのを聞いたことがない。他の流派にも取手が伝わっているなどというのは、信じられない。そういう人達は自分達の師匠が上原先生に師事したことを知らないのではないか。上原先生に師事してすぐやめていった人はたくさんいる。

 

・上原先生と交流した空手家の中で、(本部朝基先生にも師事したことのある)名嘉真朝増先生が約束組手は上手だった。理に適っていた。受けた手でそのまま突いたり。2拍子がはやい。引いているんじゃなくて、そのまま突く。一本一本をきれいにではなく、連続技がいい。名嘉真先生のナイハンチ立ちはこわかった。迫力があって、近寄りがたい印象を受けた。

 

・沖縄拳法の中村茂先生は、実戦空手の先駆者。防具空手による試合を沖縄で初めてした人。その当時の沖縄では、「空手は試合をしたら、片方が死ぬんだ」と言って、型稽古しかやらなかった。一心流の島袋龍夫先生も戦後米軍相手に空手をしていた。

 

・八光流の講習会には上原先生のお供をして一緒に行ったが、1日10分くらいの受講時間だった。講習会の時は上原先生とずっと一緒だったが、上原先生はその後八光流から技は取り入れてなんかいない。講習会の後、八光流の手伝いをしていた安田という人が沖縄に1ヶ月間くらい残って、上原先生のもとで一緒に稽古した。

 

・<安田師範から講習会では、上原先生に技が掛からなかった、すでに封じ技をもっていたと聞きました、との問いに> 

私も最後のほうは私が取手の掛け役になって稽古したが、上原先生の手を掴んでも、スルッと抜けることがよくあった。どうしてああいうことができたのか。掛けた取手を抜く技、封じ技を知っていたのだろう。それが天性のものか修練の結果かは分からない。安田さんは私も少し習ったが相当の腕前だった。その人が技を掛けて掛からないというのなら、上原先生は実際に封じ技を知っていたのだと思う。

 

・武器術は棒対棒、棒対鎌、棒対ヌーチク等があったが、私は武器術に関心がなかったのであまり熱心に稽古しなかった。 

 

・浜千鳥は私は習っていない。首里松村は踊りも上手に踊っていたそうである。

比嘉清徳先生
比嘉清徳先生

・<比嘉清徳先生は取手は松村宗棍から伝えられたという説を唱えていますね、との問いに>

比嘉先生がそう言っているのを聞いたことはあるが、上原先生からは聞いたことはない。

 

・昭和40、1年頃(1965、6年)から、剣道の面や胴などを付けて練習するようになった。また、この頃から米軍人も何名か稽古に来ていた。

 

・当時の弟子には、ほかに名護の津波孝明先生や比嘉清徳先生らがいた。両方とも大変熱心だった。津波先生は当時50歳を過ぎたくらいで、相当の達人で上原先生も期待を寄せていたが、稽古の帰りに交通事故で亡くなられた。大村基善さんもいたが、たまに稽古にくる程度だった。大村さんは津波先生の義兄弟で中村茂先生の弟子。上原浩さんは、私たちは昼間の稽古だったので、(稽古の時間帯が違うので)会わなかった。

 

・当時は段位や免状などはなく、ただ白帯と黒帯だけの区別である。私は26歳の時に、全沖縄空手古武道連合会(会長・比嘉清徳)から五段錬士をいただいた。それが最初で最後である。

 

・その後、私は琉大に就職して空手部を指導するようになり、大学空手で忙しくなったので、本部流から離れた。 

 

・受け技について

空手でよく見られる内受け、外受けなどの受け技はなかった。蹴りを受ける下段払いもない。上原先生はかわすと同時に突く。突きでかわす感じ。一種のカウンターである。相当練習しないとむずかしい。機械的にひたすら練習しないと、上原先生のようにこなせるようになるのは無理である。


・体捌きはよかった。つま先立ちは、体を速くかわすため。話の中では、かかとをあげる高さは、紙一枚抜ける程度と言っていた。かかとを上げすぎると、膝が棒になってしまう。当時から上原先生は膝は曲げなかったが、しかしまっすぐしていても膝には少しゆとりがあった。ただ目立つほどは曲げてなかった。沖縄で、当時膝を曲げない流派はない。前屈と猫足が沖縄では組手の主流だった。

仲村渠完蔵氏
仲村渠完蔵氏

・上原先生は強かった。理屈と実力が合っていた。一度琉大の体育館で大きな包丁――というよりナタみたいなものを、仲村渠完蔵(なかんだかりかんぞう)さんに持たせて自由に突かせる演武をしたことがあるが、すべて捌いていた。約束でも、本物の刃物だから間違いがあれば大変である。しかし、上原先生はそれができた。端からは、あんなことができるか、申し合わせじゃないか、とか、フェイントかけたらどうなるかとか悪口があったが、上原先生はそれができた。上原先生の体をかわす、という技術は、他人が真似のできるものではなかった。「拳でも刃物と思ってかわしなさい。一発しかない」と言っていた。

(2007年5/24、6/3、6/13、9/19、聞き取り)