昭和30年代の本部御殿手(2)

昭和32、3年頃入門

上原浩

 

・  昭和2年生まれ。私は、最初メーザの翁(タンメー)という中国帰りのおじいさんに空手を習った。旧制中学の一年生頃だったと思う。この方は戦前、海外の武術を見聞するためにハワイやアメリカなどに渡って10年くらい武者修行してきた人である。タンメーは「外国には沖縄の空手以上にすばらしい武術があるのではないか」と思って訪ね歩いたが、期待していた武術はなかった。むしろ沖縄からの移民の人達が現地で空手をしているくらいだった。それで、空手のほうが優れていると分かって、昭和123年頃に帰国した。

 

  戦前は私の住む部落では空手をすると、人殺しの訓練をしていると思われた。それで、空手をしていると知られると、村八分にされるので隠れて習った。

 

  その後、タンメーの紹介で「将来沖縄を制する武士になる」という津波孝明(つはこうめい)先生に師事することになった。津波先生は、廃藩置県後に名護市東江(あがりえ)に移住してきた西里のタンメーに空手を師事し、さらにその後沖縄拳法の中村茂先生に師事した人である。津波先生には大村基善(おおむらもとぜん)さんという義兄弟がいた。大村さんの方が先に中村先生に師事していて、後から津波先生が入門した。戦前、中村先生が名護で道場開きをしたときには、本部朝基先生や喜屋武朝徳先生も訪ねて来られたそうである。

 

  私が津波先生に入門したのは、昭和16、7年頃だったと思う。途中、昭和19年から21年12月まで予科練(海軍飛行予科練習生)として本土に行っていたが、沖縄に戻るとまた津波先生のところに行って、先生が亡くなるまで修業した。津波先生は昭和41年に交通事故で亡くなられた。

 

  津波先生のもとで修業しているとき、津波先生から「自分は武術の幅を拡げるために上原清吉先生に師事している」という話を聞いた。昭和30年頃だったと思う。

・  それから2、3年後のある日、私を含め2、3名の弟子たちは、津波先生に半ば強制的に車に乗せられ、上原先生のところに連れて行かれた。上原先生の技は津波先生よりもさらに奥が深かった。上には上があるものだと思った。それから津波先生と一緒に上原先生のもとで修業することになった。津波先生の義兄弟・大村基善さんもいた。大村さんは釵(サイ)の名人で、大村さんの釵の手を見て、当時釵の名人として知られていた喜屋武真栄先生が「これは自分ももう少し修業しないといけない」と思って、大村さんから釵を習ったくらいの人である。

 

・  稽古は上原先生が経営していたバーや浜辺などでした。当時バーの営業許可は深夜0時までで、店が終わるとバーのホールで稽古をした。天気のいい時は浜辺で稽古した。真夜中である。名護から上原先生のところまで車で2時間かけて通った。時間は上原先生の空いた時間に行った。私たちは、上原先生の他の弟子たちとは一緒に稽古はしなかった。

 

・  稽古の内容は、突き、蹴り、それから舞踊を分解したような、太極拳のようなもの(取手)があった。普通の空手と取手の両方を習った。

 

・  <御殿手の取手は八光流の影響を受けたのではないかと批判する人もいますが、との問いに対して>

それは誤解である。実を言うと、八光流の講習会に上原先生を誘ったのは私たちである。昭和36年に、八光流の奥山先生が本土から台湾へ行く途中、沖縄に立ち寄られた。その時、松林流の長嶺将真先生が世話役となって八光流の講習会が開かれ、それに津波先生も誘われて私たちも一緒に参加した。

 

・それで、翌年(昭和37)の2回目の講習会の時には、私たちが兼島信助先生(渡山流)と一緒に、上原先生にお願いして講習会に参加してもらったのである。上原先生が参加したのはそれきりである。だから、取手が八光流から作られたというのはうそだと言える。私は両方学んだが、御殿手には八光流以上のものがある。また八光流にも御殿手以上のものがある。私はむしろ御殿手のほうが八光流より起源が先じゃないかと思う。

 

・武器は棒や鎌などを習った。沖縄の古武術の道具に対する身の防ぎ方とか攻撃の仕方も習った。

 

・  私は60歳くらいまで空手をしていたが、その後現役を引退した。私は特に何流を習ったという意識はないが、強いて言えば中村先生の沖縄拳法が私の流派である。本土の人はすぐ流派を聞いて、流派名がないというとまやかし、我流みたいな見下した態度を取るが、沖縄には昔は流派などなかったのである。 

20075/306/1、聞き取り)

 

追記

・メーザのタンメーのメーザは前座と書く。苗字ではなく屋号。苗字は宮城だったと思う。下の名前は覚えていない。メーザのタンメーから教わった空手は型とかではなく、もっとそれ以前の、基本的な突き蹴りとかそういったもの。タンメーはハワイで現地の移民からケンポーを習ってきたそうである。

 

・津波先生は、普通ではちょっと考えられないような、心のやさしい、面倒見のいい先生だった。武術を長く修業していると、中には心が荒んでくるような人もいるものだが、津波先生にはそうした点はまったくなかった。上原先生も津波先生の人柄に惚れられて、二人は師弟というよりも兄弟のような間柄だった。いま生きておられたら95歳くらいだと思う。

 

・中村茂先生と上原先生の交流はあった。私は中村先生とは戦前はお会いしたことはなかったが、戦後は師匠の師匠ということで時々型を見てもらったりした。中村先生は昭和25年頃に、剣道の面、胴、垂れを付けて組手試合をはじめた。おそらくこれが戦後沖縄ではじめての組手試合だったのではないか。

 

・武士国吉(ぶし・くによし、国吉真吉)は廃藩置県後に田舎に下ってきた士族。私はもちろん会ったことはないので詳しいことは知らない。

 

・戦後になっても空手をしていると知られると、あまりいい顔はされなかった。人前で演武をするということもなかった。特に酒の席で空手を披露するのは嫌われた。修業は自分のためにするもので人に見せるためのものではないというのが当時の考え方だった。

(2013年8/31聞き取り)