本部御殿手の武器術

琉球には禁武政策のために武器はなかった、また空手は武器を奪われた人々が薩摩藩に対抗するために創り上げたもの。――このよく知られた禁武政策による空手発展説は、しかし事実とはかけ離れたものです。

 

例えば、本部朝基先生の『私の唐手術』(昭和7年)には、この俗説に反して多数の武器術の大家が紹介されています。この人たちは、みな有名な空手家でもありました。試みに、朝基先生が紹介した武器術の大家たちを表にしてみますと、以下のようになります。

 

武器術の大家(馬術を含む)

  剣術 槍術 弓術 棒術 サイ術 馬術

王貴族

(御殿殿内)

具志川親方

西平親方

関羽佐渡山

豊見城親方

玉城親方

宜野湾殿内

(盛島親方)

 

豊見城親方

玉城親方

士族

(親雲上)

松村

外間

 

油屋山城

渡嘉敷親雲上

津堅ハンタ小

下中爺

棒宮里

本村

古波蔵

宮平

那覇の崎山

上原

筑佐事儀間

板良敷

古波蔵

宮平

庶民

      糸満マギー    

(本部朝基『私の唐手術』より)

 

豊見城親方盛綱(1829 - 93)。五大名門の一つ、毛氏豊見城家16世。王国末期の著名な政治家であり、また朝基先生が槍術、馬術、空手の達人として紹介する首里貴族。
豊見城親方盛綱(1829 - 93)。五大名門の一つ、毛氏豊見城家16世。王国末期の著名な政治家であり、また朝基先生が槍術、馬術、空手の達人として紹介する首里貴族。

王貴族は、按司・親方といった自分の領地を有する人々、沖縄では大名とも呼ばれた階級の人たちです。剣術・槍術・弓術は、この階級に集中しているのが表からも分かります。この階級の人たちは、島津侵攻以後も国王から拝領するなどして、これらの武器を所持していました。また、琉球王国末期には、一般士族の中にも薩摩藩から示現流を学ぶ人々が出現しました。有名な松村宗棍先生もその一人です。

 

棒術は、貴族から庶民まで広く愛好された武器術です。またサイ術は、筑佐事(刑事)が携帯したことから、主に一般士族の一部で熱心に行われました。馬術は武器術とは違いますが、持ち馬を所有する貴族たちは馬術もよく稽古しました。

 

このように空手は、武器を奪われた人々によって発展したのではなく、むしろ空手を発展させた人々は同時に武器も稽古していた事実が、朝基先生の著書から知ることができます。残念ながら、これら王貴族の武器術は、廃藩置県後の王貴族の没落によって、その多くが失われてしまいました。今日では、本部朝勇先生が伝えた本部御殿の各種の武器術が、かろうじて継承されているだけです。

剣術

琉球刀。故宮博物院、1757年献上品
琉球刀。故宮博物院、1757年献上品

琉球にあった刀の多くは、日本から輸入したもの、あるいは日本の刀身に琉球で柄や鞘を制作して取り付けたものでした。また、中国や東南アジアから伝来したと思われるものもありました。

王子・按司などの御殿階級は、刀は国王から拝領するなどして皆もっていました。御殿の下の殿内(とぅんち)と呼ばれる貴族たちも、三司官(宰相)に就任すると、国王から拝領しました。

 

こうした琉球の刀は、戦災と戦後の米軍による没収によってそのほとんどが失われました。現存する琉球刀は尚家旧蔵などわずかですが、中国には琉球国王から献上された刀が「琉球刀」として現存しています。

琉球王家の宝刀・千代金丸。刀身は日本製だが、柄は日本に見られない片手柄の“異形の刀”。尚家伝来品、那覇市歴史博物館蔵。
琉球王家の宝刀・千代金丸。刀身は日本製だが、柄は日本に見られない片手柄の“異形の刀”。尚家伝来品、那覇市歴史博物館蔵。

本部御殿手には、「太刀の手」という名称で琉球独自の剣術が伝えられています。その操作法は、刀は本土の剣術のように腰に差さずに直接手に持ち、刃側を太刀のように下に向けて抜刀します。

 

朝勇先生によれば、本部御殿の当主は、刀は帯刀せずに左右の従者に持たせていたので、いざというときは従者から受け取って、どちらの手でも使えるよう稽古していたそうです。また、本部御殿手には、二刀による操作法(二刀流)も伝承されています。

槍術

上原先生の槍術。右は様々な琉球の槍(『中山聘使略』より)。
上原先生の槍術。右は様々な琉球の槍(『中山聘使略』より)。

琉球の槍は、日本から伝来したもの、中国から伝来したものなど、様々なものがありました。本部御殿にあった槍は、写真右端にある片鎌槍に似たものでした。

 

本部御殿の当主が、首里城へ出仕する際には、他の武器持ちとともに槍持ち2名をつけました。儀仗の編成、武器の種類は、身分によって厳密に区別されていました。

 

本部御殿手の槍術は、槍を身体と一体化させ、腕で付くのではなく、流れるような歩みとともに、前進する勢いを利用して体全体で突いていきます。穂先を抜き取るときも、反対側の石突きで他の敵に攻撃を加えるなど、槍全体を武器として活用します。

長刀術

左は上原先生自作の長刀。右は琉球の龍刀(『中山聘使略』より)
左は上原先生自作の長刀。右は琉球の龍刀(『中山聘使略』より)

日本の長刀(なぎなた)と本部御殿にあった長刀には、形状に違いがありました。本部御殿の長刀は、大刃の刀背に小刃がついたもので、写真右の「龍刀」のような形をしていました。形状から中国伝来ものか、あるいはそれに似せて琉球で制作されたものと思われます。

 

本部御殿手の長刀術は、槍術と基本的には同じですが、多数の敵に囲まれたときには、刃を下に向け長刀を身体に密着させて、体をコマのように回転させながら、ぐるりと敵をえぐるように斬っていきます。

サイ術

釵(サイ)は、大築(ウフチク、警察署長)や筑佐事(チクサジ、刑事)が携帯して、犯人逮捕や群衆誘導などに使ったと言われています。

 

本部御殿手の釵術も、他の武器術同様、その術理は同じで、流れるような歩みとともに、打つ、刺す、からめるといった使い方をします。ただ武器は最後まで手放さないという考えから、投げ技はありません。

ヌウチク

ヌウチクの起源は馬具だという。
ヌウチクの起源は馬具だという。

本部御殿手では、ヌンチャクのことをヌウチクと呼びます。那覇方言と首里方言(あるいは御殿言葉)の違いかもしれませんが、はっきりしたことは分かりません。

 

本部御殿手のヌウチクは、手で振るのではなく、体全体で振っていきます。振った後の手の返し方は独特で、舞いの手の動きと共通する点があります。

山刀(小刀)

上原先生自作の山刀
上原先生自作の山刀

本部御殿手には、小刀を用いた剣術も伝わっています。上原先生によれば、朝勇先生が所有していた小刀は日本の脇差しのようなものではなく、柄頭に飾りひもがついた琉球独特のものだったそうです。長さや形が琉球の山刀(ヤマナジ、山で木の枝などを切るのに用いた小刀)に似ているので、上原先生は山刀と呼んでいましたが、形状からおそらく中国から伝来したものか、それに似せて琉球で制作されたものと考えられます。

 

朝勇先生はお盆のときにこの小刀を他の飾り物と同様飾っていたそうで、武器以外にも祭祀的な意味もあったようです。また、沖縄史の研究家によれば、御殿や殿内といった琉球貴族の当主たちは、寝るとき、枕元にこうした小刀をおいていたそうです。こうした習慣は護身目的以外に、宗教的なお守りの意味もあったのかしれません。本部御殿手では、山刀も二刀流の操作が基本となっています。

棒術

本部御殿手の棒術は、武器術の中でももっとも御殿手の思想が現れたものの一つといえます。御殿手の棒術は、取手同様、その主眼は「相手を傷つけることなく取り押さえる」ということであり、棒による突きや打ちの技法は基本として覚えますが、決して相手を叩きのめしたり、打ち倒すことを目的とはしてません。棒の技法の中核をなすものは、相手の棒を絡め取って無抵抗にし、取り押さえるというものです。

 

また、組棒(くみぼう)と呼ばれる棒で棒を払ったり、防いだりといったことも原則としてしません。本部御殿手の素手術では、揚げ受け、横受け、下段払いといった「受け」のみを目的とした技法は用いませんが、この思想は武器術においても同じで、本部御殿手では武器で武器を払ったり、相手の攻撃を防いだりといった技法を非常に嫌います。武器術においても、相手の攻撃に対しては、体捌きでかわしながらカウンター気味に攻撃を加え、相手を制するよう心がけます。「攻防一体」の思想は、本部御殿手の素手術、武器術の両方を貫く根本思想であり、これは棒術においても例外ではなく、それゆえ本部御殿手の棒術は他のどんな流派とも似ていない極めて特徴的なスタイルとなっています。