本部御殿手の技術体系
基本の体術と術理
本部御殿手では、膝を曲げず、腰を落とさない「タッチュウグヮー」1)と呼ばれる独特の立ち方を基本とします。踵はやや浮かし、母趾球に重心をかけ、攻防に際しては、胸を張り腹を中心に据え、前後左右へ滑らかに運足するよう心がけます。
突き蹴りは、今日行われている空手とは異なり、前手突き、前足蹴りが基本です。構えも、現代空手のように後手は引き手として構えるのではなく、前手に添える形、いわゆる「夫婦手」に構えます。こうした点は本部拳法同様、空手流派の中でも独特で、本部家特有の共通性がうかがえます。
相手からの攻撃に対しては、体捌きでかわしながら、カウンター気味に攻撃を加え、攻防一体を理想とする点も本部拳法と共通しています。「空手は受けで始まり、突きで終わる」という術理は、本部家の武術には当てはまりません。 また、本部御殿手では外受け、内受け、下段払いといった、受けのみを目的とした技も使用しません。
基礎鍛錬法としては、元手(ムートゥディー、もとで)があります。元手は朝勇師直伝のもので、那覇手のサンチンにやや似ていますが、呼吸法、姿勢や力の入れ方、手の捻りなどに相違があります。ちなみに、元手は“型”ではありません。元来は、ただ前進して適当なところで戻ってくるだけの“鍛錬法”で、現在の形式は、上原先生が稽古しやすいように形を整えただけです。元手の他には、上原先生が師伝の技を取り入れて作った合戦手(カッシンディー、かっせんて)の型があります。
本部御殿手の稽古は、あくまで「相対動作」が中心で、「単独動作」としての型稽古は中心ではありません。そもそも本部御殿手には型はありませんでした。 朝勇先生は、元手を基本として相対動作を中心に指導されたからです。ナイハンチを基本として、組手を中心に指導された弟の朝基先生と同じ指導方法でした。
1) タッチュウとは、山の頂など、先が尖って屹立(きつりつ)しているものを指す方言。梵語の塔頭が語源であるが、通常は漢字を当てない。グヮーは接尾辞で漢字では「小」と書き、小さいもの、愛らしいものを意味する言葉だが、この場合は語調を整えるような感じでそれほど意味はない。
取手
突き蹴りを主体とした剛拳のほかに、本部御殿手には「取手(トゥイティー、とりて)」と呼ばれる関節技・投げ技を主体とした技法があります。取手は琉球王族たる本部御殿にのみ伝わる秘伝技で、慈愛に満ちた王家の精神に基づき相手を傷つけることなく取り押さえることを旨としています。
取手は本土の合気柔術のような約束組手形式(型稽古)ではなく、元来は真に突いてきたものを真にかわして技を掛けるという、自由組手に近い形式で覚えていきました。 |
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明治の大家・糸洲安恒先生(1831-1915)が、『糸洲十訓』(明治41年)の中で、沖縄の取手は空手の型(唐手表芸)に含まれないと述べているのは、取手はそもそも空手の型分解やそこから制式化された約束組手によって覚えるものではない、という意味です。 |
取手は、本来、師と弟子とが一子相伝という形で口伝を通じて学んでいくものでした。糸洲先生は、空手の家庭教師として本部御殿に出入りしていたので、取手の存在を知ったのでしょう。ちなみに戦後、糸洲門下の知花朝信先生を始め、沖縄空手界の大家とことごとく親交があり、昭和36年から上原先生に師事された比嘉清徳先生によれば、「戦後の沖縄空手界において、取手という言葉、またその技法を当時知っていたのは、上原先生だけであった」(ご子息・清彦先生談)そうです。
技の掛け方も、”手の甲”からではなく、大抵は”手のひら”から掛けますが、こうした点も合気柔術とは異なる沖縄の取手の大きな特徴です。動きも合気柔術で強調される円運動ではなく、直線的な動きで技を掛けていきます。 座技は存在しません。手技は、琉球の宮廷舞踊、とりわけ女踊りで用いられる「押し手」、「拝み手」、「こねり手」に一致し、その三形式の応用変化から成り立っています。
押し手、拝み手、こねり手とは、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』(1531 - 1623)にも登場する、古来から祭祀芸能で用いられてきた所作で、これらを宮廷舞踊に取り入れたのは、本部御殿とも縁のある劇聖・玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)だと言われています。
宮廷舞踊は、かつては「御冠船踊り(ウカンシンウドゥイ)」といい、国王即位のたびに御冠船(冊封使船)に乗って来琉する冊封使歓待のための舞踊で、その主な担い手は王貴族の男子でした。 |
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宮廷舞踊の真骨頂である女踊りも、もちろん男性が舞いました。宮廷舞踊は、元来王貴族のための芸能で、庶民はもちろん、空手の主な担い手だった下級士族さえも、ほとんど見ることも習うこともできない芸能でした。 |
武器術
本部御殿手には他に武器術があり、元手の次に素手術と平行して習得していきます。武器は棒、杖、二丁短棒、ヌウチク、トンファー、櫂(ウェーク)、サイ、二丁鎌などを用いますが、その他身近なものはすべて武器となります。また、一般士族が所持できなかった剣、槍、長刀等の術を伝えているのも、王族たる本部御殿の手の大きな特徴と言えるでしょう。
1609年の薩摩藩の琉球侵攻以降も、御殿、殿内といった王族や上級士族は、引き続き刀剣類を所持することが許されました。王国時代、御殿・殿内の数は約360戸1)、琉球士族全体で約2万戸ありましたから、その数は士族全体のわずか2%弱にすぎませんでしたが、こうした家々の中には、薩摩侵攻以降も、本部御殿のように空手のほかに剣術などを稽古する家もありました。
また、御殿、殿内の当主が首里城へ登城する際には、『中山伝信録』(1721)の記述にもあるように、槍持ち、刀持ちなど護衛の家来を従え、その編成は十数人から数十人規模にも達したのでした。
本部御殿手の武器術の特徴は、いかなる武器を用いてもすべて同一の原理と操作法に基づく合理的なもので、武器数に比例して操作が煩雑になるということはありません。また武器術においても、素手術同様、型稽古ではなく相対稽古が中心となっています。
1) 1873年時点で、御殿は28戸(王子家2、按司家26)、殿内は334戸であった。
奥伝
最後に奥伝として、本部御殿手には武の舞とも呼ばれる舞いの手があります。空手が一般に型の中に技を隠蔽したように、御殿手では舞いの中に取手などの奥義が隠されています。「按司方の舞方ただおもてみるな わざにわざする奥手やりば」という朝勇師の琉歌は、この舞いの手の極意を詠ったものです。
上で述べたように、宮廷舞踊は、元来、冊封式典(即位式)など国家重大行事の際に演じるための舞踊で、王朝時代は王貴族のみが鑑賞できる芸能でした。御殿・殿内(うどぅん・とぅんち)と呼ばれた王貴族の男子は、元服前に「若衆(わかしゅう)」1)として王府に出仕して小姓などの職に就きましたが、彼らは学問、礼法などと共に宮廷舞踊も習いました。そして、彼らの中から特に優れた者が選抜されて、冊封使の前で舞踊を披露したのです。
そもそも本土では武芸が士族にとって習得すべき必須課目であったのと同様、琉球王国では宮廷舞踊が習得すべき必須課目であり、その重要性は冊封使歓待という国家的使命を帯びた、今日では想像もできないほど高いものでした。また、舞踊を監督する踊奉行(おどりぶぎょう)は官職であり、按司や親方など高位の身分のものから選ばれました。
取手が舞いの中に隠されて本部御殿に伝承されてきたのは、本部御殿が琉球王族という宮廷舞踊を習得できる地位にあり、かつ武術と芸術の両方に秀でた家柄だったからでしょう。武の中に舞があり、舞の中に武があるという武と舞の一致は、本部御殿だからこそ可能でした。本部御殿手には、ほかに武器術の奥伝として渦巻、竜巻の剣技があります。
1) 若衆(わかしゅう)とは、元服前の王貴族の男子のこと。首里城に出仕して小姓などを勤めた。髪型は女性のように結い、赤紗綾(あかさや)や赤縮緬(あかちりめん)など華麗な振袖を着て、王族は金襴(きんらん)、ほかは緞子(どんす)や綸子(りんず)の細帯を締めた。現在では若衆踊りに当時に近い姿を見ることができる。