本部ナビ

本部ナビ
本部ナビ

本部ナビ(明治26(1893)年12月1日 - 昭和48(1973)年11月16日)は、本部朝基の妻である。父盛島盛祐、母カメの五女として誕生した。


ナビは沖縄では昔は一般的な名で、漢字で書くと鍋(ナビィ)、士族の娘なら「真」の接頭美称辞を付けて真鍋(マナビィ)となる。しかし、当人は日本風に「奈美」という漢字を当てていた。また手紙には「なへ」「ナエ」「ナヱ」とも署名していた。

 

盛島家は、毛国鼎・中城按司護佐丸盛春を元祖とする毛氏豊見城殿内の支流(分家)である。名乗頭(名前の最初の一字)はほかの毛氏門中同様「盛」である。王国末期には豊見城間切金良村の脇地頭(小領主)を務めていた。家格は御殿(うどぅん)の下の殿内(とぅんち)クラスで、空手家で言えば安里安恒等と同格である。王国時代は「盛島殿内(どぅんち)」と呼ばれていた。『氏集』に「盛嶋里主」とあるのは、ナビの父か祖父であろう。里主(さとぅぬし)は当主が若年などでまだ位階を賜っていない者につく称号である。なお、『氏集』では「盛嶋」とあるが、『王代記』では「盛島」とある。昔は「島津」を「嶋津」と表記することもあったから、こうした表記のゆれは古文書では珍しいことではない。

尚益王妃の厨子甕(玉陵)
尚益王妃の厨子甕(玉陵)

盛島殿内の系祖は、毛邦秀・具志川親方盛昌である。毛氏伊野波殿内の家祖・伊野波親方盛紀の四男であった。母・真尹金は、羽地御殿の支流五世・向明志・太工廻親方朝株(森山殿内)の娘である。摂政・羽地王子朝秀とはいとこの関係にある。また、羽地朝秀の室(妻)・思戸金も盛昌の叔母(盛良次女)にあたる人物である。長兄は“モーイ親方”のあだ名で知られる伊野波親方盛平、三兄は『思出草』の作者の識名親方盛命である。

 

盛昌の父・伊野波盛紀は、本部王子朝平とともに初代・本部間切の総地頭に就任し、三司官も務めた当時の有力政治家であった。とはいえ、殿内の四男なら出世してもせいぜい里之子親雲上(平士族)が関の山だと思うが、親方にまで昇っているのだからいささか異例である。その理由として考えられるのは、まず娘の思真鶴金(うみまづるがね、1680 - 1765)が尚益王の妃(当時、王太孫妃)となったからではなかろうか。

 

盛昌の室は安里按司(翁氏支流四世・佐久真親方忠義の娘)、継室が具志堅按司(毛氏美里殿内六世・嵩原親方安依長女)である。いずれも按司の名島(称号)を賜っているのは、やはり王妃の母(あるいは国王の祖母)だったからと思われる。ちなみに具志堅按司の弟には、平敷屋・友寄事件で処刑された友寄安乗がいる。

 

思真鶴金は最初野嵩按司加那志(ぬだきあじがなし)と称し、尚益王薨去後の1723年には第8代・聞得大君(最高神女)に就任している。当時の御妃選びは家柄はもちろんのこと、才色兼備以上を要求する徹底的な実力主義であった。真栄平房敬『首里城物語』に以下の内容が紹介されている。 

盛島殿内系図
盛島殿内系図

・御妃候補は按司地頭、総地頭の息女であること。妾の子でも可。健康で才色兼備は当然である。

 

・庭遊び審査。マーヰウーチェー(鞠つき)、ギーター(片足とび)、トゥンジェークー(二人の子供が互いに片手をつないで、上体をそらして引っ張り合いながらぐるぐるまわる遊び)等をさせて、遊びの様子を観察しながら、他候補と比較して容貌、健康状態、性格、しつけ等を見る。

 

・個人面接。名前、家庭、服装その他について質問対話し、言葉遣い、人情、教養、才能等を見る。

 

・食事を取らせる。食事の作法、礼法、好き嫌いを見、食後に使った箸を米ぬかに差し入れて、箸のどの長さまでなめたかを調べる。なめた部分が長いと不作法とされる。

 

・占い審査。畳の下に黄金のハサミ(クガニンパサン)を隠し置き、候補者を室内に通して自由に座らせる。妃に選ばれる徳の高い者は、黄金のハサミの上に自ら座るとされる。ときには再審査されることもある。


これを見ると、思真鶴金の父・盛昌は最初から総地頭であったのであろうか。確かに尚益王以後の王妃はすべて按司地頭家、総地頭家の出身である。思真鶴金が尚益に嫁いだのは、康煕33(1694)年11月26日、数え年15歳のときである。祖父・伊野波盛紀は、それより6年前の康煕27(1688)年に亡くなっているから、祖父の後ろ盾があったわけでもなさそうである。

 

伊野波殿内の家譜の八世・伊野波親方盛平の項目に以下の記載がある。

 

康煕三十三年十一月二十六日 毛氏野嵩按司加那志為 王太孫尚益公妃時臣親主其婚禮事而禮式行于臣家也附禄 野嵩按司加那志者臣弟湧稲國親方盛昌之長女而即予之姪女也 

 

現代語訳:

康煕33年11月26日、毛氏野嵩按司加那志が王太孫・尚益公の妃となるとき、臣(盛平)はその婚礼式を我が邸宅で開催する幸運に恵まれた。というのも、野高按司加那志は臣の弟・湧稲國親方盛昌の長女であり、すなわち私の姪にあたる女性だからである。

 

伊野波盛平は、この婚礼の二ヶ月前に父同様、三司官に就任している。しかし、妃の内定は通常婚礼の1年半から2年前であるから、盛平が三司官の地位を利用したわけでもない。また上記の文を読むと、婚礼時には盛昌は「湧稲國親方(わきなぐにうぇーかた)」とあるから、すでに親方になっていたことになる。すると、やはり何か特別な功績でもあったのであろうか。とはいえ、依然湧稲國村の脇地頭で、間切全体を領する総地頭だったわけではない。

 

いずれにしろ、他の有力家の候補者を差し置いて思真鶴金が選ばれたのは、当時伊野波家一族が親子二代に渡って三司官を出し、飛ぶ鳥落とす勢いであったとしても、やはり当人自身に才色兼備以上のオーラが備わっていたからであろう。思真鶴金は尚益王との間に、尚敬王を含む2男2女をもうけている。その後の琉球国王はすべて尚敬王の子孫であるから、盛島殿内の血はその後の琉球王家にも流れているわけである。

 

長男・尚敬は蔡温を国師と仰ぎ、その治政下には玉城朝薫が組踊を創作するなど、政治、文化の面で著しい成果のあった時代である。唐手家でも本部朝基が著しているように、西平親方、具志川親方(盛昌とは別人物)など、達人と呼ばれた人達が出現し始める時期である。尚真王以来の琉球の黄金期を現出せしめた名君と評価されている。次男・尚徹、北谷王子朝騎は大村御殿の養子となり、「耳切坊主」の民話で知られるように、これまた傑出した人物として伝わる。してみれば、思真鶴金は才能ある子供達を産み、見事王妃として期待される役割を十二分に果たしたわけである。

本部朝礎
本部朝礎

ナビは、本部朝基との間に次男・朝礎(戸籍上長男、1915 - 1943)、三男・朝正(同じく次男)をもうけた。戦前はまだ唐手だけでは食っていける時代ではなかった。それゆえ、ナビも士族の娘とはいえ、内地では工場で働くなどして二人の息子を育てながら必死になって家計を支え、また夫の夢の実現に尽くした。戦前の唐手家の妻たちは多かれ少なかれ同じような苦労をしたことと思う。今日世界中に空手が広まっているのには、こうした妻たちの内助の功があったことを忘れてはならない。


長男・朝礎は中国戦線へ派遣されたあと病を得て帰国、昭和18年に熊本陸軍病院で惜しくも亡くなった。次男・朝正は父、兄たち亡き後、戦後警察官として奉職しながら年老いた母の面倒を見た。ナビは晩年は趣味の編み物や和裁をしたりして穏やかな日々を過ごした。昭和48年、家族に看取られながら逝去した。


ナビには盛島盛康という兄がいて父のあと盛島家の当主となったはずであるが、いつ亡くなったのか分からない。姉妹たちの子供には新田光子、松島芳子(松島殿内後裔、松島朝三妻)、金城仁助(津嘉山の嫡子、大阪府豊中市在)、大城芳子(旧姓多和田、ハワイへ移住)各氏等がいて昭和50年代くらいまでは本部家と交流があったが、皆亡くなられてしまった。盛島家の男系は断絶したようである。盛島家の御墓がどうなったのか気になって調べているが、目下のところ情報は皆無である。殿内クラスの御墓ならば、残っていれば相当立派な墓だったはずである。戦争で破壊されたのか、それとも男系が途絶えて無縁墓としてどこかに放置されているのであろうか。沖縄にはそうした無縁墓が数多くあると聞く。かつて王妃を出した家にしてはいささか寂しい結末である。『氏集』を見ると、盛島家には永吉家や幸地家といった分家もあるが、戦後は門中のつながりもなくどなたも情報をお持ちでないようである。

盛島家ゆかりの人々