本部御殿について
歴史
本部御殿(もとぶうどぅん)は、琉球王国の第二尚氏王統・第十代尚質王(1629年-1668年)の第六王子、本部王子朝平(唐名・尚弘信、1655年 - 1687年)を元祖とする琉球王族です。
17世紀から廃藩置県まで、歴代当主は、国王に次ぐ王子1)・按司2)の地位にあり、首里王府の要職を歴任して国王を補佐してきました。
また、文武両道に長けた家柄で、著名な政治家・武術家・芸術家を多数輩出してきました。御殿(うどぅん)とは、日本の宮家に相当する言葉で、王族の邸宅を意味するとともに、そこに住む王族をも意味しました。
1) 王子は、琉球では国王の子以外に、大功のある按司も賜った。位階は最高位の無品。
2) 按司(あじ)は、王子の直系子孫の称号で、日本の宮家当主に相当する。位階は王子と同じ無品。
一世・朝平
一世・本部王子朝平は、1655年5月4日、父・尚質王、母・本光との間に第六王子として誕生しました。妃は安谷屋親方正房の娘・浦崎翁主1)でした。1666年、11歳にして本部間切(現・本部町)を父王から領地として賜り、本部王子を称しました。これ以降、歴代当主は本部の家名を名乗ることになります。朝平の長男・朝完は本部御殿を継ぎ、次男・朝卓は浦添按司の養子となって浦添御殿(後の高嶺御殿)を継ぎました。
1) 翁主(おうしゅ)は、王子妃の称号。ほかに既婚王女にも使われた。
三世・朝隆
三世・本部王子朝隆(唐名・尚文思)は、1715年、尚貞王七回忌の御茶御殿奉行(芸能・茶道)をつとめました。このとき踊奉行1)として朝隆を補佐したのは、組踊りの祖である劇聖・玉城朝薫2)でした。朝薫は、琉球舞踊の創造・発展に大きな貢献をした芸術家です。また、朝薫の三男・朝喜3)は、朝隆の大親職(家令)をつとめました。このように本部御殿と琉球舞踊は、その誕生の頃から深い関係にありました。
朝隆は、1723年、島津継豊の婚礼慶賀のために、また1738年には将軍吉宗の孫・竹千代(後の将軍・家治)誕生慶賀の書翰を伝達するために薩摩へ赴くなど外交官としても活躍しました。
さらに総宗正として正史『球陽』の編纂にも携わりました。朝隆は、数々の功績により尚姓(しょうせい)と王子号を賜りました。尚姓は国王の姓で、王族でも国王と王子だけが名乗れる特別なものでした。
1) 踊奉行(おどりぶぎょう)とは、国王の年忌や冊封の式典で琉球舞踊を披露する際、これを指導・監督する奉行職のこと。
2) 玉城親方朝薫(1684 - 1734)は、辺土名家第6代当主。組踊り以外にも、宮廷舞踊(古典舞踊)、とりわけ女踊りの諸屯、作田、伊野波節、柳、天川、かせかけ、本貫花の七踊りは朝薫作と言われている。1719年、冊封使海宝・徐葆光の前で、史上初めて組踊りを上演した。
3) 奥平親雲上朝喜(1714 - 1766)は、辺土名家第8代当主。1744年、兄・朝嘉の死により家督相続。1746年、本部王子朝隆の大親職に就く。湛水流を父から受け継いだ。1756年、踊奉行に任命され、冊封使全魁・周煌の前で宮廷舞踊を披露した。
五世・朝救
五世・本部按司朝救(唐名・向國珍、1741 -1814)は、琉歌の泰斗と呼ばれ、惣慶親雲上忠義と並んで「琉歌の双璧」(『琉球新報』明治41年7月27日)と評されるほどの大歌人です。また、妻・真伊奴金(まいぬがね、1743 -1812)は、18世紀最大の空手家・具志川思亀1)の孫娘でした。
朝救は、琉歌の助詞である「だいんす」を多く使い、朝救の「だいんす」が入った歌は、いずれもまた通常の歌よりも良かったというので、晩年は”ダインス按司”とあだ名された歌仙でした。
朝救の歌は丁重な作風が多く、歌会に出るときも三、四時間も会の時間より先に行くことを常とし、身は礼服、沖縄のカサビーを着け、詩経、古今集、唐詩選、白氏文集、伊勢、万葉などの書籍を大きな風呂敷に包んで運ばせ、開吟の時間までは、これらの書物を熟読吟味して、はじめて歌にかかったと言われています。このため、朝救の歌は神韻縹渺として、余人を寄せ付けない完成度を誇りました。ちなみに琉球舞踊の傑作『天川』で歌われる天川節は、朝救の歌が歌詞として使われています。
天川の池に 遊ぶ鴛鴦(おしどり)の 思羽(おもいば)の契り よそや知らぬ
歌意:天川の池に遊ぶ仲のよいおしどりのように、あの人と交わした深い契りは、他の誰も知らない。
1773年、淨岸院(第5代藩主・島津継豊の室・竹姫)の進香使として、薩摩へ赴きました。
1) 本部朝基著『私の唐手術』の中で、当時の「琉球随一の武人」と紹介されている具志川親方のこと。
2) 八角棒は、直径7センチ、長さ170センチの八角形の棒で、各面が赤と黒の交互に彩色されていた。
六世・朝英
六世・本部王子朝英(唐名・尚大猷)も外交官として活躍し、1804年、1809年、1814年の三度、薩摩へ慶賀使として渡っています。薩摩への派遣は大抵半年から1年弱におよび、滞在期間は大変長いものでした。滞在中は薩摩藩主への挨拶をはじめ、寺社への参詣、歌会への参加など活動は多岐にわたっていました。
このように本部御殿の歴代当主はほとんどが薩摩へ派遣されており、日本と大変つながりの深い家柄であったと言えます。朝英も、その功績により尚姓と王子号を賜り、本部王子を称しました。
八世・朝章
八世・本部按司朝章(唐名・尚景保)は尚灝、尚育、尚泰三代の王側近として活躍し、また力があり”武士”(琉球では武術家の意味)としても当時有名でした。1855年には総理官に就任し、フランスのゲラン提督との間で琉仏条約を締結しています。
総理官とは、国王に代わって外国と条約の交渉・締結を行う臨時の総理大臣職のことで、朝章はその風貌・貫禄がいかにも国王らしいということで、任命されたと伝えられています。1859年、前年に死去した島津斉彬の進香使として薩摩へ赴きました。
十世・朝勇、朝基
十世・本部朝勇(長男)は、本部御殿手の継承者として知られ、また琉球舞踊、琉歌をたしなむ教養人でした。王朝時代の正式名は、伊野波按司朝勇と言いました。伊野波按司(いのはあじ)とは、本部按司の嫡男の称号で、元服のときに国王から賜りました。
弟の本部朝基(三男)は、沖縄空手史上、最大の天才の一人として世界的にも著名です。大正時代に本土へ渡り、本土における空手普及の先駆者として不滅の業績を残しました。
他に本部御殿の一門では、分家出身の喜屋武朝扶(旧名・本永朝扶)1)、喜屋武朝徳(本名・本永朝徳)親子も空手家として有名で、本部御殿はその家柄の高さと輩出した武人の数で他を圧倒して、琉球王国最大の武の名門として知られています。
1) 喜屋武親方朝扶(唐名・向維新、1839年生)は、本永朝庸の長男で本部御殿八世。祖母は喜屋武親方朝昶の三女・真鍋。17歳の時、喜屋武家の養子となり家督相続。空手は松村宗棍に師事。息子の朝徳は、父の実家を継ぐため本永家の養子となるが、晩年まで喜屋武朝徳の旧名で通した。
本部御殿の家紋
本部御殿の紋章は丸に左三つ巴です。左三つ巴は、琉球では左御紋(ひじゃいぐむん)といい王家の紋章で、国王とその親族しか使用が許されない神聖なものでした。巴紋は、北山王国、中山王国、南山王国の三山統一を象徴していると言われています。いわば、琉球統一のシンボルであり、琉球を統べる王家の象徴でした。本部御殿をはじめとする御殿家は、この巴紋を中心にそれぞれ独自の縁飾りが付きました。