浦崎翁主

浦崎翁主の厨子甕銘書
浦崎翁主の厨子甕銘書

浦崎翁主(うらさきおうしゅ)は、一世・本部王子朝平の室(妻)である。生没年は不詳であるが、亡くなった日は厨子甕(骨壺)に「九月十三日卒」と記されている。浦崎翁主については、高嶺御殿の家譜の三世・向大謨・浦添按司朝卓(1673 - 1744)のに以下の記載がある。


原雖爲父尚氏本部王子朝平母章氏安谷屋親方正房娘浦崎翁主童名真加戸樽金號蘭心朝式依無嗣子奉 命爲婿猶子継家統 


現代語訳:

(朝卓の)元々の父は尚氏本部王子朝平、母は章氏安谷屋親方正房の娘、浦崎翁主、童名真加戸樽金(まかとたるがね)、号蘭心であるが、朝式に跡継ぎがいないため、命を奉じて婿養子となりその家督を継ぐ。


高嶺御殿の二世・浦添按司朝式の妻は、尚質王の三女・与那嶺翁主である。与那嶺翁主の母は、本部王子朝平と同じ本光であり、二人は同じ母から生まれた姉弟であった。浦添按司朝式と与那嶺翁主との間には思亀樽金(うみかめたるがね)という娘がいたが、男子がいなかった。そこで弟の本部王子朝平の息子を婿養子に迎えて、高嶺御殿を継がせたわけである。

 

「浦崎」は本部王子の妻の称号(名島)である。本部間切浦崎村に由来する。「翁主」は既婚王女や王子妃の称号である。按司の妻の場合は、翁主とは呼ばれない。本部御殿の二世以降の当主でも、功績があって按司から王子(従王子)に陞(のぼ)ると、按司の妻も翁主位に陞り、浦崎の名島を賜った。この場合、「浦崎翁主」もしくは「浦崎按司加那志(あじがなし)」と称するようになる。日常会話では浦崎御殿(うらさきうどぅん)と尊称された。


浦崎翁主の実家は章氏(しょううじ)である。章氏の始祖は中城若松(なかぐすくわかまつ)である。玉城朝薫の組踊「執心鐘入」(1719年)の主人公でもある。伝承では、中城若松は第二尚氏初代・尚円王と神女・安谷屋ノロとの間にできたご落胤とされる。もしこれが事実とするなら、当時神女との間に子をもうけるのは禁忌(タブー)であったため、王府編纂の史書には記されなかったのかもしれない。

実は本部王子朝平の母・本光、安谷屋阿護母志良礼(あだにやあごもしられ)も章氏の出身である。安谷屋は中城若松の故郷、阿護母志良礼は側室の称号である。章氏の出であるから「安谷屋」と称されていたのであろうか。家譜編纂開始(1689年)以前のことなので、正確な親戚関係は分からないが、息子の嫁を一族の章氏から迎えようと、母・本光の意向が働いた可能性は十分考えられる。

 

ちなみに、本部王子の兄・尚貞王の正妃・奥間按司加那志も章氏の出身である。ご落胤伝説の真偽は分からないが、当時、章氏が王家と深く結びついていた様子がうかがえる。


玉城朝薫の名が出たのでいうと、玉城朝薫の母・真鍋も章氏の出身であった。真鍋の父・野国親方正恒は安谷屋親雲上正勝の五男である。この正勝の長男が安谷屋親方正房、つまり浦崎翁主の父である。それゆえ、浦崎翁主と玉城朝薫の母は従姉妹(いとこ)同士である。

 

玉城朝薫は4歳のときに父を亡くし、その後は祖父に育てられたが祖父も8歳のときに亡くなっている。このため、成長過程で母方の祖父・野国正恒の影響が大きかったと言われている。正恒は2度、踊奉行を務めた人であり、玉城朝薫の芸術家気質もこの祖父から受け継いだ可能性が指摘されている。彼の組踊に章氏由来の人物が登場するのはこのためであろう。

 

朝薫の息子・奥平親雲上朝喜も父同様、冊封式のとき踊奉行を務めたが、朝喜は一時期、本部御殿の大親職(家令)を務めていた。家譜に「乾隆十一年丙寅閏三月十一日任尚氏本部王子朝隆大親職陞座敷(1746年、尚氏本部王子朝隆の大親職に任命され、座敷の位に昇る)」とある。こうした縁も章氏とのつながりが背景に働いていたのであろうか。

参考文献

・『向姓家譜(高嶺家)』那覇市歴史博物館蔵(複製本)

・『王代記』琉球大学附属図書館蔵