本部ウシ

伊江朝助
伊江朝助

戦前、「本部朝基先生・語録」の著者でもある中田瑞彦氏が本部朝基の依頼で、貴族院議員・伊江朝助男爵(明治14―昭和32)を訪問したことがあった。伊江男爵は旧琉球王家の分家である伊江御殿の14世当主である。このとき、伊江男爵は中田氏に対して、「本部は私のいとこだが、あれのやるのは唐手ではない、本部流のケンカ術だよ。何某(某空手家)なぞは一足で倒されてしまうな」と語ったという1)

 

本部流はもちろん「唐手」であるが、型稽古を中心とする当時の空手家たちの中にあって、本部朝基は組手と掛け試しで勇名を馳せていたので、このような感想をもったのであろう。伊江朝助氏が空手をしていたという話は聞かないが、伊江御殿は糸洲安恒先生のパトロンだったので、少しくらいは空手を習っていたかもしれない。

 

さて、伊江氏のこの話によると、どうやら本部朝基の母は伊江御殿の出身だったらしい2)。しかし、本部家にはこの女性について、詳しい話は伝わっていない。本部朝基の戸籍謄本(昭和16年首里市発行)は現存しているが、そこには本部朝基は父・朝真、母・ウシの三男と記載されている。戦前の戸籍謄本だから、この情報は正確である。ちなみに、海外の空手書籍の中には、本部朝基は沖縄の裕福な商人と芸者との間に生まれた私生子(bastard son)だったなどと書いてあるものがあるが、もちろんデマである。 

本部朝基戸籍謄本より。
本部朝基戸籍謄本より。

旧民法(明治31年―昭和22年)の規定では、私生子とは婚外子でかつ父親が認知していない場合を言うので、もし本部朝基が私生子ならばこのように戸籍に父親の名が載ることはない。認知されれば父親の名前は記載されるが、やはり婚外子なので戦前の戸籍には「庶子男(非嫡出子の男の意)」と記載されて「三男」とは記載されない。つまり、本部朝基が三男と記載されているのは、夫と妻との間の嫡出子であるという証明である。ちなみに、現在の法律ではこうした差別的記載は改められているので、たとえ婚外子であっても長男、二男、三男……と記載される。

 

また、戸籍謄本には、本部朝基は「士族」と明記されている。琉球士族は廃藩置県後、日本の士族に組み込まれたので戸籍謄本にはこのように記載されているのである3)。士族制度は昭和22年の民法改正まで形式的に残っていた。本部朝基を商人の子と主張するなら、その根拠を示してもらいたい。これらのことを記すのは、いまだに本部朝基について悪質なデマを流す者がいるので、本部流から反論がなければ事実であろうと誤解されるのを防ぐためである。

 

さて、母の名のウシ(牛)は、琉球王国時代、士族の娘の場合は敬称接頭辞の「真」を付けて真牛(まうし、モウシ)、王族の場合はさらに敬称接尾辞の「金」を付けて、真牛金(まうしがね、モウシガニ)と呼称された。それゆえ、朝基の母(按司妃)は、廃藩以前は、真牛金と呼称されていたはずである。そこで、伊江御殿の家譜を見てみると、本部御殿に嫁いだ真牛や真牛金という名前はないが、伊江王子朝直(1818ー1896)の項に該当人物と思われる下記の記載がある。

 

三女眞鍋樽 道光二十四年甲辰八月二十二日生嫁于向氏伊野波按司朝宜 

 

現代語訳:

三女真鍋樽(マナビィタル)。道光24(1844)年8月22日生まれ。向氏伊野波按司朝宜に嫁ぐ。

 

向氏(しょううじ)は琉球王家の分家の氏である。正確に言うと、琉球王家一門のうち、国王と王子は尚氏(しょううじ)を名乗るが、按司(あじ、王子の直系子孫)以下の親族は、尚の欠画である向(この場合、「こう」ではなく「しょう」と読ませる)の字を使用した。また、伊野波按司(いのはあじ)は、本部御殿の嗣子(若按司)の称号である。本部間切伊野波村(現・本部町伊野波)に由来する。それゆえ、上記の一文は、真鍋樽は王家一族である本部御殿の嗣子に嫁いだ、という意味である。各御殿の嗣子にはこのように独自の称号(名島という)があって、元服と同時に琉球国王から賜った。称号名は通常は各御殿が領地とする間切(当時の行政単位)の中の村名から採られた。

 

朝宜(ちょうぎ)という人物は本部御殿にはいないが、年代から本部朝基の父・朝真のことだろうと思われる。宜が真(眞)に変わった理由は分からないが、昔は禁字といって、突然ある漢字(清国皇帝や薩摩藩主の実名など)が使えず名前が変わる例があった。伊江王子朝直も元は朝忠である。あるいは宜と真(眞)の字体が似ているので、単純に書き間違えたのかもしれない。家譜では時々こうした記載ミスがある。鍋樽(ナビィタル)が牛(ウシ)に変わった理由は分からないが、廃藩置県後、新たに戸籍登録する際、何らかの理由(時代にそぐわない、好みに合わない等)で改名して記載したのかもしれない。こうした事例は時々あった。

伊江王子朝直。明治維新慶賀使節のときの写真、明治5年。
伊江王子朝直。明治維新慶賀使節のときの写真、明治5年。

もう一つ、伊江王子朝直の三女が本部朝基の母だったと考えられる理由は、義村御殿の義村朝義が本部朝基のいとこだったとされている点である。義村朝義の母は、伊江王子朝直の次女・真蒲戸金(まかまどがね、1839-1896)であるので、朝基の母がその妹ならば、義村朝義とはいとこ同士になり、辻褄が合う4)

 

さて、下記の系図を見ると、伊江朝助氏は本部朝基のいとこではなく、いとこの子になるが、生まれが本部朝基と11歳しか離れていないので、本人はいとこくらいに思っていたのではないだろうか。

 

ちなみに、伊江朝助氏の祖母・真加戸樽(まかとたる)と本部朝勇の妻・思武太金(うみむたがね)はともに小禄親方良忠(1819-?)の娘で姉妹(次女と四女)である。小禄親方は士族の最高位である三司官(事実上の宰相職)の要職にあったが、牧志恩河事件に連座して失脚した。このとき、糾弾した急先鋒が伊江王子朝直である。つまり、2人はこのとき政敵同士となった。このことが原因か知らぬが、朝直の息子の伊江(当時は大城)按司朝永は妻と離婚している。ちなみに、小禄親方は若い頃、楽童子として江戸上りに参加し、絶世の美男子と評判だった「小禄里之子(おろくさとぬし)」と同一人物である。

 

伊江王子朝直は、その後明治維新慶賀使節の正使となって、明治天皇に拝謁しているが、このとき尚泰王を「琉球藩王」とするとの詔を賜ったために、帰国後売国奴呼ばわりされて屋敷から一歩も出られぬ有様で、晩年は失明するなどして失意のうちに亡くなった。しかし、明治政府からはこの「功績」が認められたのか、王家分家としては異例の「男爵」の爵位を賜り、華族に列せられた。系図を辿ると、このような様々な人間模様が浮かび上がってくる。

1) 「中田瑞彦から本部朝正宛手紙」平成5年10月14日

2) 伊江朝助の母は、楢原翠邦編『沖縄県人事録』( 沖縄県人事録編纂所、1916年)によると、具志頭朝敷の三女・マカトである。朝敷は、具志頭按司朝敕(具志頭御殿)の誤植か。それゆえ、いとこ同士となるためには、朝基の母が伊江御殿か具志頭御殿の出身でなければならないが、具志頭御殿だと、後述するように義村朝義といとこ同士にならないので、辻褄が合わない。

3) 士族でも次男以下が分家すると平民になったが、沖縄では士族階層の離反を防ぐ「旧慣温存政策」が採用されたので、内務省の通達により次男以下が分家した場合も士族とするようにされた。奥山恭子「明治31年民法・戸籍法施行と沖縄の戸籍事情」『横浜国際社会科学研究』第14巻第1・2号(2009年8月)、1頁参照。

4) この説の唯一の難点は、1844年生まれの母が本部朝勇(1857生)を産めるか、というものである。ただ本部朝勇の生年は上原清吉先生の推測なので、実際の生年と数年の誤差はありうる。もし実際の生年が数年後ならば、当時の女性が10代後半で第一子を産むのは珍しくないので、辻褄は合う。また、伊江王子朝直の娘が継室(後妻)だった可能性も考えられる。


参考文献:

・向姓家譜(伊江家)

・向姓家譜(義村家)

・馬姓家譜(小禄家)