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戌の御冠船踊りと本部御殿の人々
 
本部直樹

『冠船躍方日記』

 
琉球舞踊の歴史も空手同様、現存する資料が乏しく、中国の冊封使が書いた記録に多くを頼っているのが現状です。ただ例外的に尚育王(1813-1847)の冊封式典、いわゆる「戌の御冠船」(1838)の時に上演された踊りの演目名、台本、参加者氏名等が伊波普猷『琉球戯曲集』(1929)や『冠船躍方日記』(1836-1838)に載っており、詳しく知ることができます。
 
例えば、『琉球戯曲集』には女踊り「天川」を踊った人の名前が載ってますが、その中に「小禄里之子(さとぬし)」という人がいました。これだけでは誰のことか分かりませんが、『冠船躍方日記』を読むと、首里当蔵村の小禄家の長男だったことが分かります。しかし、小禄家にもいくつかあります。
 
そこで、さらに東恩納寛淳『南島風土記』(1950)を調べてみます。この書には、首里のどの村に誰が住んでいたかが書いてあります。すると、当蔵村の小禄家とは、小禄間切の総地頭家・馬氏小禄家であったことが分かります。最後に「馬姓家譜(小禄家) 」を見ると、この小禄里之子は、小禄殿内12世・小禄親方良忠(唐名・馬克承、1819 - ?)だったことが分かります。良忠の四女・思武太は本部朝勇の妻です。つまり、天川を踊ったのは本部朝勇の義父だったわけです。

組踊「護佐丸敵討」の配役名。伊波普猷『琉球戯曲集』より。 母役に「本部子」の名が見える。

 
同じように『琉球戯曲集』に、組踊『護佐丸敵討(二童敵討)』に「本部子(し)」という人物が母役で出演しています。組踊『忠士身替の巻』にも、二人の「本部子」が出演しています。「子」というのは、元服間もない10代の貴士族の称号です。おそらく、15、6歳の人物だったのでしょう。
 
そこで、『冠船躍方日記』を見ると、彼らは首里赤平村の本部家の長男と三男だったと記載されています。さらに『南島風土記』で調べると、首里赤平村の本部家とは、按司地頭家、つまり本部御殿だったことが分かります。残念ながら、本部御殿の家譜は沖縄戦で失われたので、組踊を踊った本部御殿の長男と三男が誰だったか分かりませんが、年代的に見てどうやら本部朝勇・朝基の父・本部按司朝真とその兄弟だったようです。
 
ちなみに、戌の御冠船踊りの踊奉行は、羽地按司、棚原親方、真玉橋親雲上、本部里之子親雲上の4人でした。「本部里之子親雲上」という称号が付くのは、通常は本部御殿の次男以下の者か、本部御殿の分家の小宗・本部家(本部朝救の四男・朝紀の家系)の当主のいずれかです。小宗・本部家の家譜は現存していますが、踊奉行に任命された人物は見あたらないので、踊奉行の本部里之子親雲上とは、当時の本部御殿当主の弟の誰かだったのでしょう。
 
参考文献:
伊波普猷『伊波普猷全集(第三巻)』平凡社、1974年。
板谷徹編『尚育王代における琉球芸能の環境と芸態復元の研究』沖縄県立芸術大学音楽学部板谷研究室、2003年。
東恩納寛淳『南島風土記』沖縄文化協会・沖縄財団、1950年。