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 本部朝基先生

 

 

生い立ちと修業時代


拳聖・本部朝基先生

 

本部朝基(もとぶちょうき)先生は、明治3年4月5日(1870年5月5日)、琉球王族である父・本部按司朝真、母・真牛の三男として出生されました。童名は真三良(マサンラー)と言いました1)。幼少の頃より武に興味を示し、数え年12歳のときに首里手の大家・糸洲安恒先生を本部御殿に招聘して、長兄・朝勇先生と共に正式に師事されました2)

 

朝基先生は13歳年上の朝勇先生に組手でいつも負けていたので、糸洲先生だけではあきたらず密かに首里の松村宗棍先生や佐久間先生といった伝説の大家のもとにも通って修業されました。松村先生は糸洲先生の師でもあり、「近世の唐手の達人中、松村先生ほど精妙を極めて他に強かった者はない」(本部朝基談)といわれる達人で、朝基先生は親友・屋部憲通先生とともにこの松村先生の愛弟子でした3)

 

また、19歳の頃からは泊手の大家・松茂良興作先生にも師事されました。組手稽古の最中、朝基先生の一手が松茂良先生の顔に入ったことから、「年の若い者としては非常に武才がある」(琉球新報・昭和11年)と、松茂良先生が激賞された逸話が伝えられています。

 

他にも朝基先生はおよそ名のある大家はすべて訪ねて教えを請い、実際に立ち会って空手研究に没頭されました。一人の師匠に師事するのも大変だった時代に、これだけ多くの大家に師事できたのは、朝基先生が御殿の出身だからこそ可能なことでした。

「自分は、まだ巻藁をどうやって突くのが一番よいか判らない」(朝基先生60余歳の言葉)

 

また、朝基先生は王族出身の身でありながら、当時としては異例なことに那覇・辻町の遊郭に出かけて、数々の掛け試しの実戦を行いました。当時は「唐手」はまだ士族が習う武芸とされ、体面を重んじる士族、とりわけ御殿階級の者がそうした危険な場所で実戦を行うなど考えられない時代でした。

 

しかし、生来、合理主義的精神をもつ朝基先生にとって、師匠から習った技をただ墨守するだけでなく、それらが実際に使えるかどうかを検証することは切実な問題でした。そして、何百回となく掛け試しを行い、一度も負けることがありませんでした。その結果、24、5歳の頃には「本部御殿の猿御前(サーラーウメー)」、「本部のサールー」といえば、三尺の童子ですらその名を知らぬ者はないといわれるほどになり、その武名は沖縄中に轟いたのでした。

 

二十代にして生ける伝説となった後も、朝基先生の武の向上を目指す姿勢は余人を遙かに凌ぐもので、同門で親友の屋部先生とともに組手研究に没頭し、疑問が生じればただちに松村、松茂良、糸洲先生方を訪ねて教えを請いました。決して自らの実力に驕り高ぶらず、真摯と謙譲の精神でもって空手の真髄を追究する姿は晩年まで変わりませんでした。その生き様は、まさに”窮理の徒”そのものでした。

 

1) 真三良の「真」は、丁寧を意味する接頭辞で士族の童名の最初に付く。「三良(サンルー、サンラー)」は和名の三郎の意味。本部朝基のあだ名の「猿(サールー、サーラー)」は、ここから来ているという説もある。


2)本部朝基著『私の唐手術』の「著者略歴」を参照。


3)大道館時代の直弟子・松森正躬氏によると、「本部・屋部両氏は共に松村先生の秘蔵弟子」であったという。

 

本土での活躍


『キング』大正14年9月号

 

大正10年頃、朝基先生は大阪に移り住みます。そして、大正11年11月、京都へ遊びに出かけた際、柔道対ボクシングの興業試合の看板を目にして飛び入りで参戦し、相手の外国人ボクサーを一撃の下に倒しました。このとき、朝基先生は52歳でした。

 

当時はまだ「人生50年」と言われた時代でした。それゆえ、当時老人といってもいい年齢の朝基先生が未知の武術・唐手(空手の旧称)で、巨漢のボクサーを倒したのを見て観客は驚嘆し、試合終了後は会場は熱狂の渦に包まれました。

 

すでに沖縄では伝説的な唐手家であった朝基先生の武名は、本土でも直ちに拡がり、唐手についての問い合わせ、指導依頼などが殺到しました。この年、大阪此花区四貫島(しかんじま)に道場を開設、また兵庫県の御影警察署や御影師範学校に出向いて唐手の試演・指導を行いました。

『沖縄拳法唐手術組手編』(大正15年)

 

大正14年には、当時最高の発行部数を誇った雑誌『キング』が、京都での朝基先生の勝利を大々的に取り上げました。これによって初めて、国民の多くが沖縄発祥の武術・”唐手”の存在を知ることになったのです。また、当時、厳しい経済状況に置かれていた沖縄の人々も、本土で活躍する朝基先生の報道に接して、我がことのように喜び、大いに溜飲を下げたのでした。


大正15(1926)年5月、朝基先生は『沖縄拳法唐手術組手編』を出版します。この書は、空手史上、最古の組手書であり、ここで紹介された沖縄古伝の組手技術の数々は、今日ではもはや本部拳法のみが受け継いでいるもので、単なる一流派の組手書という次元に留まらず、沖縄の文化と歴史全体にとっても貴重な価値をもつ書として、国内はもとより海外でも非常に高い評価を受けています。

 東京・大道館時代

大道館道場館則(昭和初期)

 

昭和に入ると、朝基先生は拠点を東京に移します。昭和4年、東洋大学唐手部創設にともない、唐手師範に就任しました。また、この頃、小石川原町(現・文京区)に「大道館」を設立しました。

 

大道館が正確にいつ設立されたのかは不明ですが、現存する葉書などから、少なくとも昭和5年には設立されていたようです。貸家の一階を道場にしたごく慎ましいものでしたが、正式に命名された空手専門の道場としては、大道館は日本最古のものでした。道場名は、禅語の「大道無門」に由来するもので、「武の大いなる道には門はない」という深い意味を込めたものでした。

 

昭和7年には、二冊目の著書『私の唐手術』を出版します。この書で、朝基先生はナイハンチの型の全挙動写真を掲載し、且つ、ナイハンチの誤伝についても強い口調で警告して、空手の真伝が本土で歪められつつある状況に懸念を表明されました。型の改変に対する朝基先生の厳格な保守的態度は、当時本土へ渡った空手家の多くが「空手の普及」という大義名分の名の下に、型の改変を許容していったのとは対照的でした。

 

また、朝基先生は王朝時代の武人の名とその特技について一々列挙して叙述し、師から聞かされた空手の歴史の口碑を文章として後世に残すように努めました。今日、『私の唐手術』は、空手の歴史を解明する上で、第一級の資料となっています。

朝基先生と大道館の門弟(昭和7年)

 

昭和11年、空手調査のため一時沖縄に帰郷し、同年10月25日には、琉球新報主催の「空手大家の座談会」に出席されました。この座談会が開かれた10月25日は、2005年に沖縄県議会によって「空手の日」に制定されるほどの世紀の座談会でした。

 

また、11月7日には、特別に朝基先生だけの独占座談会が開かれました。座談会の模様は、「武士・本部朝基翁に『実戦談』を聴く!」と題して、新聞紙上で三回ににわたって大々的に報道されました。朝基先生が、当時の沖縄空手界において、名実ともにその頂点に君臨していた様子がうかがい知れるエピソードです。

 

この座談会でも、朝基先生は空手の現状と先行きに対する不満を口にされました。松村・佐久間時代を”メルクマール”として、型の改変への批判、また王朝時代の組手を知らない世代が伝統と無関係な組手を勝手に作っていることへの批判等です。しかし、空手の歴史は、その後朝基先生が心配した通りに歩んでいったのでした。

 

晩年


晩年の朝基先生(昭和17年)

 

昭和12年、朝基先生は再び東京に戻られ大道館での指導を再開されました。この頃、ボクサーのピストン堀口先生(1914-1950)も大道館に来られて、朝基先生のもとで稽古されています。他にも大道館が講道館に近いこともあって、柔道の大家・徳三宝先生(1887-1945)などもよく来られていました。また、大阪の家に戻った折には、実子・朝正先生にも空手を指導されました。

 

朝基先生は兄・朝勇先生と違って、武器術は若い頃に稽古しただけで長年されていませんでしたが、晩年には剣術と棒術の稽古を再開されました。弟子の中田先生や丸川先生などによると、朝基先生の武器術は、まさに本部拳法の術理を反映したもので、それは見事なものだったそうです。

 

昭和16年、朝基先生は東京の大道館を閉鎖し、大阪の家へ一旦戻られます。そして、昭和17年中頃まで大阪に滞在した後、沖縄へ行かれました。当初は一時的な帰郷の予定でしたが、戦争が次第に激しくなり大阪へ帰ることが困難になったため、朝基先生は故郷・沖縄で最期の時を迎える決心をされました。

 

戦時中、家の明かりを漏らさないように灯火管制が始まったとき、朝基先生は「この戦争は負けるな。守る戦いは非常に難しいから」と述べられたそうです。そして昭和19年4月15日、74歳でその偉大な生涯を閉じられました。墓所は大阪府貝塚市。