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女踊り「天川」とその分解
 
本部直樹
 

 
「天川」は女踊りの一つで、手法的には手踊りに分類されます。手踊りとは、小道具を持たずに手の所作だけで踊る踊りのことで、他の女踊り、例えば「作田節」では唐団扇、「かせかけ」では糸巻、「貫花」では花飾りをもって踊りますが、天川は指輪をはめる以外は小道具は一切用いません。
 
天川を含めた女踊り七作は、玉城朝勲が創作したとも言われていますが、これは戦後護得久朝章氏(1890-1957)らが言い始めた説と言われており、実際これらの踊りで使われている歌詞の多くは、朝勲死後の作者の歌が使われていることから、今日では研究者によってほぼ否定されています1
 
天川の実際の作者や創作時期は不明ですが、天川で使われている歌詞「天川節」の作者は、本部御殿の先祖である本部按司朝救(1741-1814)ですから、創作時期の上限は18世紀半ばとなります。天川が踊られた最古の記録は、1790年、江戸薩摩屋敷で踊られた時のものがもっとも古く2、創作時期もおそらくこの頃だったのでしょう。この時、本部朝救は49歳でまだ存命中でしたから、天川は本部朝救の積極的な協力のもとで創作されたか、あるいは朝救その人が作者だった可能性も考えられます。琉球舞踊の作者は玉城朝勲が首里貴族・辺土名家の当主であったように、その多くは御殿殿内(うどぅん、とぅんち)と呼ばれた首里の貴族たちによって作られたものですから、本部朝救が作者であった可能性は十分考えられるからです。
 
当時の教養ある琉球貴族は、琉歌、和歌、琉球舞踊、三線演奏、武術すべてをこなすマルチタレントであり、例えば玉城朝勲は舞踊家だけでなく、著名な歌人であり、また音楽の演奏家でもありました。彼らは一人何役もこなして活躍し、今日私たちが知る王朝文化を創り上げていきました。天川は後に「仲順節」を加えて現在の形になり、1838年のいわゆる「戌の御冠船」の時には、冊封使の前で上演されました。
 
本部御殿手古武術協会では、この天川を過去何度も研究発表会で取り上げてきました。天川の中には、古来より祭祀舞踊で用いられてきた「こねり手」、「拝み手」、「押し手」等の手法が頻繁に現れますが、これらの手法は、本部御殿手に伝承されている舞の手とよく酷似しているからです。もっとも天川の作者が本部御殿の先祖であるなら、手法が似ているのも頷けるというものです。
 
上原清吉先生は、昭和49年以来、当時の琉球舞踊の巨匠だった島袋光裕先生(1893-1987)とともに本部御殿手の舞の手と琉球舞踊の実際の手法の共通点について、何度も研究をされました。この分野の研究としてはもっとも先駆的なものであり、学術的にも大変意義があるものです。
 
1. 矢野輝雄『沖縄舞踊の歴史』築地書館、1988年、131-142頁参照。
2. 同上146頁参照。
 

 
動画の紹介:
女踊り「天川」。踊り手:島袋君子(現・千尋会島袋君子琉舞練場会長、沖縄県立芸術大学教授、本部御殿手師範)

「天川」分解。演武者:島袋君子、時田勝也(本部御殿手教士七段)。解説:宮城鷹夫(本部御殿手師範)。
「舞と武第七回合同研究発表会」(1990年)より。