上原清吉先生
生い立ちと修業時代
上原清吉(うえはらせいきち)先生は、明治37年、父・上原蒲戸の五男として島尻郡小禄村(現・那覇市)に出生されました。童名は「カナグヮー」と言いました。
上原家は農業のかたわら、味噌・醤油の醸造、販売を生業としており、比較的裕福な家庭でした。上原先生は成績優秀で運動にも長けた少年で、当然中学にも進学する予定でしたが、小学六年生の時、兄の事業の失敗で一家が破産したため、進学を断念して家業を手伝うことになりました。
上原先生の仕事は味噌・醤油の行商で、小禄村から川向こうの那覇まで出かけては、各家庭に品々を届けるというものでした。当時は商売仲間の縄張り争いもあり、子供ながら同業者から嫌がらせやいじめを受けることもありました。このため、上原先生はいつしか「唐手」を習いたい、と思うようになりました。
唐手は王朝時代は士族だけが習える武術で、廃藩置県後は一般に公開されるようになったとはいえ、学校体育を別とすれば、一般にはまだ首里の旧士族や那覇の豪商の子弟といった恵まれた者だけが、紹介を得て初めて習えるものでした。
上原先生は、たまたま行商の時に本部朝勇先生に出会い、武術を師事するようになりました。朝勇先生は、人々から「本部御前」と崇められる本部御殿の第11代当主であり、弟には沖縄一の唐手家と知られる本部朝基先生がいました。そして、朝勇先生自身が素手術から武器術、馬術に至るまで、あらゆる武芸に通じた大武術家でした。
朝勇先生の指導法
指導は、朝昼晩と一日三回、仕事の合間を縫って、毎日休みなく行われました。最初の数年間は、突き、蹴り、歩法といった基礎鍛錬が中心でした。朝勇先生の指導法はユニークで、自分の腹を正拳で突かせて鍛えたり、小学校の鉄棒で大車輪の練習をさせたりしました。他にも亀甲墓や石垣の上から飛び降りながら突き蹴りをしたり、壁をよじ登る稽古さえありました。
そして次第に武器術、取手術、馬術へと稽古メニューを変化させていきました。稽古はあくまで実戦的で、自由に突かせて指導するいうものでした。型稽古が主流の大正時代にこうした実戦的な教え方をしていたは、朝勇先生と朝基先生ぐらいだったでしょう。相対稽古を重視するのが、本部御殿の武の伝統だったのです。
上原先生は、すでに17,8歳の頃には相当の力量に達し、師の代わりに他の弟子の指導を任されることもありました。大正13年、和歌山へ行き、本部御殿手を朝勇先生の次男・朝茂先生に伝授しました。上原先生は、大正15年まで朝勇先生のもとで修業して、その年の暮れに兄を頼ってフィリピンへ移住されました。
フィリピン時代
フィリピンでは麻栽培の農場を経営しながら、道場を開設して武術の指導も始められました。また、昭和3(1928)年の昭和天皇御大典記念演武大会に、沖縄代表として出演されました。
昭和16(1941)年、太平洋戦争が始まると、上原先生は軍属として徴用され、各地の戦場を転戦されました。フィリピンの戦場は想像を絶するほど過酷なものでした。上原先生の活躍は常人離れしたもので、当時の上官の鈴木少佐や部隊長も、特にその剣技は「人間技とは思えない」と絶賛するほどでした。
フィリピン時代、上原先生は朝勇先生から贈られた琉歌を毎晩のように拝読し、その内容はすべて暗記していました。戦場でも、朝勇先生の教えを守り、様々な地形における戦い方や風向きを読んで安全地帯に逃げる方法など、御殿手の稽古が実際に役に立ち、幾度も危機を脱することができたそうです。
帰郷と指導の再開
昭和22年、上原先生は沖縄に帰郷されました。戦前、フィリピンに移住していたこともあって、上原先生は戦後の沖縄空手界では無名に近く、いわば”隠れ武士”的な存在でしたが、それでもフィリピン時代の噂を聞きつけて武を習いたいと訪ねてくる人もいました。
そうした人たちに、上原先生は御殿手の基本体術を中心として空手を教えることにしました。稽古の内容は朝勇先生と同じ実戦組手が主体でした。弟子にボクシングのグローブをはめさせて、自由に突かせて相手をするというものです。
昭和30年代の沖縄で、組手を主体に教える流派は、まだほとんどありませんでした。しかも約束組手ではなく、上原先生のように、師範自らが立ち合って、弟子に自由に突かせて自由に捌くといった教え方は、皆無に近かったのです。
教える組手はいまの御殿手と同じで、「タッチュウグヮー」と呼ばれる独特の立ち方に、夫婦手の構え、前手突き、前足蹴りといったものでした。空手の基本といえば、引き手、逆突き、奥足からの前蹴りが常識の時代ですから、「あれは空手ではない」と、陰口を叩く人もいました。もっとも今日 ”空手の組手”と称して一般に行われているものは、主として昭和以降、特に戦後の創作物であり、上原先生が朝勇先生に師事していた大正時代には、存在すらしていませんでしたが――。いずれにしろ、こうした批判者たちも上原先生の実戦技術の高さは認めざるを得ませんでした。
さらに昭和30年代後半になると、古武道協会を通じて知り合った比嘉清徳先生たち師範クラスに取手も教えるようになりました。しかし、これもまた奇異に見られました。「沖縄に取手などという武術があるはずがない」と、陰で揶揄されたりしました。『糸洲十訓』(明治41)に取手の記述があるなど、当時の沖縄空手界はまだ誰も知らなかったのです。
また、昭和37(1962)年、、沖縄で八光流柔術の奥山先生が講習会を開かれ、上原先生は兼島信助先生(渡山流)に誘われて、3/27から3/30の四日間コースに参加しました。兼島先生は、上原先生の兄弟子だったので誘いを断ることができなかったのです。上原先生はそれより数年前から取手を教えていましたが、これがまた揚げ足取りの格好の材料を提供することになりました。
「本部御殿手の取手は八光流から学んだもの」と、時系列も技術比較もせずに事実無根の中傷をする人が現れました。上原先生の受講は、一日15分で四日間で計60分しか習ってないにもかかわらずです。当時の事情をよく知る比嘉清徳先生のご子息・清彦先生(神道流現宗家)によれば、「講習会には父も誘われましたが断りました。講習会前後の事情は、当時私も父から聞いていたのでよく覚えています。本部御殿手の取手が八光流から来たというのは全くのデタラメで、父はそれ以前の昭和36年から取手を学んでいます」とのことです。
また、上原先生の指導担当だった八光流元師範の方に確認したところ、「沖縄の受講者の中でただ一人技が掛からない人がいましたが、それが上原先生でした。上原先生が八光流から影響を受けたということはないと思います」と語っています。
いずれにしろ、朝基先生の場合と同じで、上原先生の名誉を傷つけたい者にとっては、事の真偽はどうでもよく、ただ中傷できる材料があればよかったわけです。
舞と武の研究
こうした中傷にもかかわらず、上原先生の実力とその技のすばらしさの噂は、次第に広まっていきました。60歳を過ぎても、20代の弟子に全力で突かせて、指一本触れさせないその指導力は実際驚異的でした。上原先生の実技を見た多くの人が「”神技”とはこういうものか」と、はじめて現実に目の当たりにした思いがしました。
弟子が増えてくるにつれて、上原先生は本部御殿手を公開する決意をし、一般に弟子を取ることにしました。それまでは紹介がなければ、入門を許していなかったのです。そして、昭和45年、本部御殿手古武術協会を設立して、会長に就任されました。
また、昭和49年からは、当時の琉球舞踊の巨匠・島袋光裕先生とともに、舞と武の関係について、合同研究を始められました。特に師から受け継いだ舞いの手と実際の琉球舞踊にどのような共通性があるのか、上原先生も解明したかったのです。その結果、琉球舞踊の中でも、特に宮廷舞踊の女踊りで用いられる押し手、拝み手、こねり手の所作が、御殿手の舞いの手と多くの点で共通している事実を発見しました。
これらの研究成果は、昭和51年の第1回合同研究発表会を皮切りに、計7回行われました。それほど大きな流派でもない本部御殿手にとって、これらの発表会にかかる費用は相当な負担でしたが、本部御殿伝来の武術の成立過程を明らかにしたいという上原先生の熱意が、多くの人々の協力を得て可能にしたのです。
晩年
昭和51年、上原先生は神戸で開催された国公立大学空手道選手権大会に招待され、本土ではじめて本部御殿手を公開・披露されました。またこの時、本部朝基先生の嫡男・朝正先生に出会い、長年の宿願だった本部御殿手を本部家に返すことも決まりました。
昭和59年、本部御殿手は日本古武道協会に沖縄県の流派として初めて加盟をしました。また、同年に岡山県で開かれた古武道大会に参加して、公開演武をしました。この時、上原先生はすでに80歳の高齢でしたが、それから十数年間、90歳を過ぎてもなお自ら演武をして多くの人々から賞賛されました。
平成4年、上原先生は著書『武の舞』を刊行し、朝勇先生との出会いやフィリピンでの出来事など、自身が歩んできた道を紹介し、また本部御殿手の技術についても詳述されました。特に朝勇先生との稽古に関する記述は、大正時代に沖縄で行われていた武術稽古の一つの記録として、極めて貴重な証言と言えるでしょう。
上原先生は晩年まで自ら日々の稽古の指導に立ち、師範代に稽古を任せるといったことはなさいませんでした。武人のあるべき姿を自ら実践して一つの模範を示されたのです。そして、99歳の白寿の祝いの席で宗家を本部朝正先生に譲り、翌年4月3日、満百歳で生涯を閉じられました。
上原清吉先生・略歴
明治37年(1904)3月24日 |
沖縄県島尻郡小禄村にて、父・上原蒲戸の五男として出生。 |
大正5年(1916)7月 |
本部御殿の本部朝勇師に師事。 |
大正12年(1923) |
首里城・南殿にて本部朝勇先生とともに「大君(ウフクン・公相君大)」を演武。 |
大正13年(1924) |
那覇市大正劇場にて「ウフクン」を演武。また、この頃から「沖縄唐手研究クラブ」に会長・本部朝勇師の”茶ワカサー”(お茶係)を名分にして、最年少で参加。 |
大正15年(1926)12月24日 |
フィリピンへ移住。 |
昭和3年(1928) |
フィリピン群島ミンダナオ島ダバオで武道場開設。 フィリピンにて昭和天皇御大典記念演武大会に沖縄県代表(3名)の一人として演武。 |
昭和16年(1941)12月 |
太平洋戦争始まる。フィリピンで軍属として徴用される。 |
昭和22年(1947)3月 |
沖縄県に帰郷。 |
昭和26年(1951)11月3日 |
沖縄県宜野湾市で、海岸や空き地を利用して武術指導を開始。 |
昭和36年(1961)3月5日 |
朝勇師の姓をいただき、自らの流派を本部流と命名。同年、本部流古武術協会を創設、会長に就任。また、比嘉清徳会長の要請を受け、沖縄古武道協会設立に参画。
同年11月、第一回沖縄古武道発表大会で「ジッチン」の型を演武する。 |
昭和38年(1963)9月 |
熊本県の沖縄物産展で招待演武。 |
昭和39年(1964) |
宜野湾市大謝名に聖道館を開設。同年4月8日、全沖縄空手古武道連合会より最高範士の称号を授与される。
同年11月3日、琉球政府文化財保護委員会より古武道の演技者表彰を受ける。 |
昭和45年(1970) |
本部朝勇師から受け継いだ技を初めて公開する決意をし、本部御殿手と命名。同年、本部御殿手古武術協会を設立、会長に就任。 |
昭和51年(1976) |
5月30日、国公立大学空手道選手権大会において招待模範演武。この時、神戸にて本部朝基先生の子息・朝正先生に初めて出会い、本部御殿手を本部家に返したい旨を伝える。
8月20日、第一回「舞と武」の合同研究発表会(於・沖縄タイムスホール)。舞と武の関連性について、先駆的研究発表を行う。 |
昭和56年(1981)8月15日 | 沖縄県空手道連盟顧問相談役に就任。 |
昭和57年(1982)4月20日 | 全沖縄空手古武道連合会会長に就任。 |
昭和59年(1984)11月3日 | 勲六等旭日章を授章。 |
昭和60年(1985)3月31日 | 日本古武道協会より古武道功労者表彰を受ける。 |
平成15(2003)8月17日 | 白寿(99歳)を機に、宗家を本部朝正先生に譲る。 |
平成16年(2004)4月3日 |
午前7時15分、老衰のため逝去。享年100。 |